忙中閑あり










 秀が珍しく無為な時間を寝転がって過ごしていると、外で雪を下駄で踏みしめる音が家のまえで止まった。
「居るかい?」
 障子戸の向こうで聞きなれた巻き舌の低い声がした。
「居るぜ」
 起き上がりもせずに怠惰に応(いら)えを返すと、青みがかった銀鼠色の襟巻を巻いた三味線屋が半分開けた戸口の外から顔を覗かせた。
「何してる?」
「何もしてねぇ。入れよ」
 ちょうど退屈していたときだったので、秀はこれ幸いと勇次を歓迎した。
「おめぇが細工にかかっていねぇのは珍しいな」
 簪の図案を描き散らしては床に投げたままにしてあったのを、がっさりとまとめて戸棚に突っ込んでいると、 火鉢の周辺に腰を下ろした勇次が言った。
「ここんとこ仕事が少なくってな」
湯呑をひとつそっちに回して、秀が肩をすくめる。
「お上が贅沢品をまた取り締まるとかいう噂が出るたび、俺らみてぇな職人はとばっちりを喰う。たまんねぇよ」
「だな。オレの仕事もさ」
 柳橋で芸者たちに三味線を教えたり糸の張替えどころをして暮らしを立てている勇次も、華やかな花柳界あって成り立つ仕事なだけに、 秀の嘆きも他人事とは思えないと見え、同情するような相槌を打った。
「ま、愚痴っててもどうにもならねぇ。暇なときはそれはそれでいいこともある」
「どんなだよ?」
「昼間っから会えるだろ。・・・こんなふうに」
 勇次の切れ長の涼しい目元が、仇っぽい光を瞳の底に宿した。
「そうだな。ちょうど一戦交えたいと思ってたとこさ」
「望むところだ」
 よいしょっ、と秀は将棋盤を持ち出して来てふたりの間に割り込ませるように置いた。
「なんだまた将棋かよ。色気のねぇ」
 苦笑して勇次が人差し指で頬を掻いた。
「将棋に決まってんだろ。なんだと思ってたんだ」
 分かっていて素っ気なくかわす秀。 これまでも何度となく勇次は秀を口説く素振りをみせて思わせぶりに迫ってみるのだが、いまだ秀に隙を見つけられた試しがない。
 秀は昔から将棋が趣味らしく、そこそこに強い。勇次はまあ誘われたら指す程度で、弱くはないが秀を翻弄するほどの腕前ではない。 それでも秀のほうが駒落ちすれば大家と指すよりかは数倍渡り合える。 訪ねてゆけば子供のように一戦ねだってくる秀に根負けして、ときどきは相手になっていたのだった。
「・・・ときに秀、今日はオレが勝ったら何でもひとつ言うことを聞くってのはどうだ?」
 秀はチラッと勇次の白皙の貌に目を向けたがすぐに盤のうえに目を戻すと、わずかの躊躇も見せずに軽く頷いた。
「ああ、いいぜ。俺が負けたらなんでも言いなりになってやら」
最初から負ける気などないと言わんばかりの口調だった。だからこその余裕の返答だ。
「よし。決まりだ」
 胡坐のうえに頬杖をついて盤を注視する勇次の隠れた口元が、薄く笑みを刷いていることに、秀は気づいていなかった。



「オレの勝ちだな、秀」
 ふっふっと笑って勝ち誇って宣言されても、秀はどうしても信じられない―――いや、信じたくなかった。
「・・・・・そんな―――バカな・・・」
 口のなかでぶつぶつ呟いては何度も見直してみるのだが、どんなに穴が開くほど盤を見つめてみても、 勇次の勝ちは覆えりそうになかった。
「いい加減認めねぇか。往生際の悪ぃやつだぜ」
 からかわれてキッと顔をあげこちらを睨みつけた秀の表情に、勇次はつい見惚れた。 蒼褪めた顔色はそのままに口惜しさで頬はやや紅潮し、負け嫌いが表に滲み出た黒目がちの瞳は食いつくようにぎらぎらと光っている。
「そんなに悔しいのか?」
「―――・・・。悔・・・しい」
 眉間に思い切り苦悩の縦ジワを刻みこみ、喉の奥から絞り出すような声で秀が呟く。
「いままで負けたことがねぇわけでもあるめぇ」
 勝ったこっちの方が気の毒な気持ちにさえなりながら勇次がとりなすが、
「そんなのは関係ねぇ」
秀が苦いものを吐き出すように呟いた。
「俺が悔しいのは・・・。おめぇだと思って油断してたてめぇに腹が立つんだ」
「ひでぇな。オレなら油断しても勝てると思ってたわけかい」
「・・・」
 本当に悔しかったのだろう。秀は擦り切れた半纏の腕でぐいと乱暴に目元をぬぐいさえした。 シンと静まった部屋のなかで、火鉢のうえの鉄瓶の湯が細かく沸騰している音だけが聞こえる。 勇次は、秀と自分の湯呑両方に白湯を注ぐと、
「まあ飲めよ。落ち着くぜ」
膝のうえで固く握り込んだままの秀の手に無理に持たせてやった。
 素知らぬ顔で白湯を啜りつつ、肚のなかでは特訓した甲斐があったと快哉を叫んでいる勇次である。 実はこのひと月というもの、市中で将棋処を営む裏の手配人鹿蔵のもとに密かに通い詰め、 秀の攻略方をみっちり教え込んでもらっていたのだ。
 かつて秀を裏の仕事仲間に引き込む際、鹿蔵は八丁堀の入れ知恵もあってわざと秀に負けてやったことがあった。 五十両をかけた大勝負だったが、その時の秀は鹿蔵の目論みを見切ることは出来ないままだった。 のちに鹿蔵とも秀とも関わりを持つことになった勇次が、秀の口から鹿蔵に昔一度勝ったという話を聞き、 直接鹿蔵から将棋を指南して貰おうと出向いていったのが、運のつき。
(鹿蔵さん、あんたのおかげだぜ)
 秀の将棋の癖を覚えていた鹿蔵の助けのおかげで、見事秀を逆転させられたのだった。




「じゃあ約束通り、何をして貰おうかな」
 嬉しそうに両手を擦り合わせた勇次を見て、秀はあからさまにイヤな顔をした。
「あんまり困らせるようなことを言うんじゃねぇよ」
「バカだな。困らせたいから賭けをしたんじゃねぇか」
ぬけぬけと言う勇次に秀は目を剥いた。
「厭味な野郎だぜ。分かったからさっさと何をすりゃいいか言え」
「ふぅん。いいのかい?」
「・・・負けは負けだからな」
 不機嫌さを隠そうともせずに膝小僧を抱いてこっちを睨んでいる秀を、勇次はニヤニヤしながらちょいと指で差し招いた。
「ここに来な」
「え?」
「ここにきて座ってみな」
 腹立たしいが仕方なく秀は尻でいざっていき、勇次の膝の前に座りなおした。
「目を閉じろ」
「何だって?」
「いちいち文句をつけるんじゃねぇよ、秀」
「くそっ。覚えてろ」
 秀はぶつくさ言いつつも眉間に皺をのせたまま命じられた通りに目を閉じた。目の前の人の悪そうな優男の面が見えなくなった途端、 おかしなことに秀は急に不安になった。すぐそこにいるはずの男の気配があるようで感じられない。
(なにをする気だ・・・?)
 何事も起こらない。空気の動く気配もなく、しゅんしゅんと小さな湯の煮える音だけが二人の間に流れている。 ふいに肩を掴まれる・・・とか、いきなり仰向けに倒される・・・とか。秀は自分の空想の卑俗さを慌てて脳内で打ち消そうとした。 が、考えまいと思えば思うほど、想像は思ってはいけない方向にかえって向かっていってしまう。
 これまでも勇次はたびたび秀に徒な戯れを持ち掛けてくるときがあった。 しかしそれはあくまで言葉や視線だけでのじゃれ合いで、勇次の手が秀に本当に触れてきたことは一度もない。 秀はそれだからこそ、自分のほうでもひそかにその駆け引きを愉しんできた。何も起きるはずがないと安心していたから、 勇次の下心にわざと呼応するようなふざけた態度をとってみせることも出来たのだ。
 でも、今日のこの沈黙はなにか言い知れぬ危うさを孕んでいる。勇次の言うことを何でも聞かなければならないからだ。 これでは逃げられない。勇次の言葉は罠のように秀を絡めとって動くことも出来なくしてしまった。 体をかいくぐって心に直接触れられているような落ち着かなさを感じた。
 鼓動が自分の耳で聞こえるほどに感じられ、顔の表面がもやもやした熱さに覆われてゆく。 ただ見られているだけなのに体がなぜか熱くなる。自分はいったいどうしてしまったんだろう。 触れられたいと思ったことなど、いままで一度もなかったのに。
(い・・・いい加減に・・・)
 耐えかねた秀の唇が、なにかを求めるようにかすかに震えて薄く開く。 ―――と、そのとき何かがほんの一瞬だけ、秀の乾いた唇に触れすぐに離れた。
「・・・もう目を開けていいぜ」
 勇次の声がすぐ耳元で聞こえたが、秀は瞼を開けることが出来ず、そっと輪郭をなぞって消えた長い指の感触を追っていた。



「おい。三味線屋」
 帰りかけていた勇次が無言で振り向いたのを、上目遣いに睨んだまま秀はぼそりと訊ねた。
「ひとつ教えろ。おめぇ、鹿蔵のとっつぁんとこに行ったろう」
「え?」
「ふん。とぼけるな。急に腕を上げたからおかしいと思ったんだ」
 どうだ当たりだろうと腕組みをして決めつけた貌は、まだ赤みを射したままだ。 こうしてあらためて眺めてみても、顔立ちといい体つきといい性格といい、秀はまったく勇次の好みに合っているのだ。 男にしておくのはほんとに勿体ない、と秀が聞いたら激怒しそうなことを思いながら勇次は笑って答えた。
「おめぇの相手が務まるように努力したんだ。褒めて欲しいくらいだぜ」
 いままで攻略に時間をかけた分、最初から急ぎ過ぎてせっかくのお愉しみを台無しにするつもりはない勇次だが、 照れ隠しのためかことさら拗ねたような表情を見ていると、いっそ勢いで最後まで喰らっておけばよかったかと、 ぐらつきかける気持ちをどうにか堪えて踵を返した。
「暇なときにはいつでも相手になってやるよ」
「賭けるのはもう無しだぜ」
「香車が好きなおめぇらしくもねぇな、秀。次は気を抜かずに真一文字にかかってくりゃいいだろ?」
 負け嫌いをくすぐってやったら、まんまと秀は引っかかってきた。
「言ったな。それじゃ俺がおめぇに勝ったら、一ん日俺の命令を聞いて貰うからそのつもりでいろよ」
「ははは。いいぜ。それじゃオレが勝っても同じことをして貰おうか」
 次の対戦の約束を取り付けた勇次は後ろ手に戸口を閉じ、背中で笑いを噛み殺した。 どっちに転んでもこの勝負、秀と一緒に居たいだけの勇次の思うつぼなのだった。





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