かまいたち
最初に出て来るのは、無音の闇。 気が付くといつも、真暗な闇の中を走っている。どこに向かっているのか分からないが、 どうやら誰かを探しているらしい。懸命に駆けながら叫んでいるのに、なぜか足音も声も聞こえない。 怖くて心細い。悲しいという感情はなく、ひとりきりでいることの恐ろしさが背中を押していた。 やみくもに走っているうち、出しぬけにドンと何かにぶち当たる。それは壁というには柔らかかった。 押しのけるよりもむしろ、この暗闇に果てがあったことに場違いの安堵を覚えた。 やがてそれがひとの体だと気づくまもなく、自分を胸に抱き留めた誰かの手が宥めるように背中をさすった。 続いて低い女の声が、音なき世界をそっと破り耳元で囁く。 ―――坊、大丈夫だよ。ここにいるから。坊、どこにも行かないから、安心しておやすみ―――― 繰り返し唄うようなその一言で、全身の力が抜けた。 見えないのに、その声と背中を撫でる手のぬくもりを何故か疑いもなく受け入れていた。 今まで心を覆い尽くしていた不安が恐怖が、包み込む柔らかな闇に溶けてゆく。 夢なのか幼い頃の曖昧な記憶なのか、今となってははっきりしない。 分かっているのはあの闇の中の主が、自分がただ一人心から慕う女(はは)だということだ。 ************************************* 昨夜母は、急に遅い座敷に呼ばれたからと三味線を手に出て行った。 母にはこんなふうに時々出かける夜がある。ほんの余興だからそんなに長くはかからないよと言い残し、 夕飯を済ませた勇次には先に寝ているようにと告げて行くのだ。 いつもの事なので大抵は言われた通りに寝ている勇次だが、昨日はたまたま起きて待っていようと思いついた。 自分が起きていても特に何が出来るわけでもない。 けれど夜にまで働いてくれる母を、お帰りとせめて出迎えてあげたいと思ったのだった。 一刻あまりで戻って来た母は、しかし固い表情をしていて、 寝ずに待っていた勇次に驚くと同時に叱りつけ、早々に寝床に追っ払った。 どけどけ退いたどいた!と通りの向こうから、せわしい掛け声と共に土埃を蹴立てて誰かが駆けて来る。 母に言われて味噌屋など何軒かのおつかいに行く途中、勇次は声を聞きつけ振り向いた。 十手をぶん回しながらの岡っ引きを先に立てて、後からやや遅れて付いて来るのは市中見回りの同心だった。 いかにも鈍重な身ごなしだが、あの太り気味の体躯には何となく見覚えがある。 角の団子屋の店先で立ち食いしてるのを何度か見かけたからだ。 子供の自分が見ても、喰う時と茶屋の娘に戯れかかる以外には真面目に仕事してるふうでもない同心が、 今日は様子が違っていた。 (何があったんだろう・・・?) 人々が一斉に道を開け、その真ん中をさも一大事という形相で走り抜けて行く。 ポカンと見送っていると、ふたりはまだ勇次の視界に届く橋のたもとで急に立ち止まった。 十手持ちが何か言って川下の方角を指し、ふたりは土手下へと降りて行く。 「土左衛門か?」 勇次の近くで何事かとその様子を見ていた通行人がひそひそと言い合ったが、そのうちの1人がどこから聞きつけたのか、 「殺しだ。"かまいたち" がまた出たんだと―――」 とつぜん野太い声を張り上げた。 (かまいたち・・・?) 思わぬところでその妖怪の名を耳に止めた時には、近くにいた男たちが「見に行こうぜ!」と複数駆け出していた。 さすがに女たちは眉をひそめて薄気味わるそうに顔を見合わせるだけだったが、 勇次は何となく気になり、おつかいを後回しにして自分も付いて行ってみることにした。 川べりに流れ着いた何かを、同心と岡っ引きが挟んで見下ろしている。 先に来た野次馬連中も、十手持ちに威嚇されて遠巻きに固まって見守っている。遅れて着いて、 大人の肩口から覗いてみた勇次の目にも、被せられた筵の端から突き出た人間らしき裸足の足が見えていた。 (・・・芝居の人形みたいだな) あんな気味の悪い足、芝居でしか見たことがない。 母は元々、勇次が観たいような怪談ものや死人が出る芝居を嫌がるので、 作り物であってもなかなか目にする機会はない。 たしかに形は自分の足と同じだが、それが蝋で型どりして作ったもののように、爪の先までが一様に白い。 というよりもっとぶよぶよして大きく、しかも不気味な青白い色をしている。 片方の足先に草鞋がかろうじて引っかかっているのが、人間だと物語る唯一の証しに思えた。 (アレが土左衛門か―――) 土左衛門というのが水死体を意味することは知っている。だが、ホンモノは初めてだ。 勇次は特に怖ろしいとも思わずに興味深々でそれを凝視した。 最初の発見者とおぼしき年寄りの漁師に、 岡っ引きがいつどこで見つけたかなどと、先に同心に対する説明をさせていた。漁師を下がらせて、 足の反対側に屈んだ同心が十手の先でちょいと筵をめくる。 しもぶくれの顔が何かを見つけたように一瞬ムッと歪む。 無造作にめくったせいで、隠されていた死体の肩あたりまで露わになる。 周囲の男たちが一斉にどよめいた。 (―――――!!!) 息を呑んだ勇次は、喉の奥で声にならない悲鳴を上げていた。 溺死した男の顔は目の遠近がおかしくなったのではと錯覚するほど、通常の人の顔の倍近くまで異様に大きく膨れ上がっている。 しかもその目は生きてる時と同じに見開かれたまま、灰色の視線を何もない虚空に放っているのだ。 だが勇次の息の根を一時的にも止め、本能的な恐怖を抱かせたのは、その無残な顔ではなかった。 何とか顏から視線を引き剥がした時、 膨れた皮膚の喉元に付けられた、赤黒い筋状の裂けめが目に入った。 (・・・かまいたち――――) 蝋のような色の肌のなかで、切り口の肉のめくれたそこだけがやけに生々しい。 それを見た途端まるで自分が喉を切られたかのように呼吸が止まり、うなじの毛が逆立った。 "かまいたち" の名は、子供たちでも知っている。 日本に古くから伝わる妖怪、もしくはそれが起こすとされた怪異と言われている。 つむじ風に乗って現われて人を切りつける。これに出遭った人は刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、 痛みはなく、傷からは血も出ないともされている。 土左衛門になった男は、"かまいたち" に襲われて、その後川に落ちて溺れ死んだのだろうか。 落ちた時にはもう死んでいたのかどうかは分からなくても、あの首の傷が原因となったのは明らかだった。 しかし、検分中の役人も詰めかけた野次馬たちも、それを妖怪の仕業とは端から考えていないらしい。 さっき町中で『殺しだ』と誰かが言ったように、 そういうやり方で出没する人殺しを“かまいたち”と呼んでいるのだ。 立ち尽くす勇次の頭の上を、興奮した会話が行き交う。 「ぶよぶよしてパッと見は分からなかったが、あいつは文五郎一家の手下(てか)だった野郎だよ」 「えっ!!そういや文五郎も死んだらしいじゃねえか。・・・てことはやっぱり人の恨みを買ったんだな・・・」 「恨みつらみが募ろうが、素人がやくざに勝てるわけがねぇ―――、きっとアレだ。殺ったのは“仕事人”よ」 「―――ええ?まさか・・・」 「ほんとかよ!?噂にゃ聞いたことがあるが・・・、そんなのがホントにいるのかね」 「にしたって見ろよ切り口!たったあんだけの傷で急所を仕留めるたぁ・・・ただ者じゃねぇよ、そいつ!」 「てぇと奴さん、まだてめぇが死んだことにも気づいてねぇかもな」 誰かのまぜっかえしに笑いが起こり、 うるせえぞてめえら!散れっっ!しょっ引くぞ!と岡っ引きが、すかさず怒鳴り声をあげて威嚇した。 布団のなかで、勇次は眠れずにいる。 もうおやすみと母に言われて、いつものように自分で布団を敷いて潜り込んだのだが、ほんとは全然眠くなかった。 自分が寝た後で母は夜なべ仕事をする。今は夏に向けての新しい浴衣を縫い始めたところだ。 勇さんはすぐ大きくなるから今度は少し大きめに仕立てなくちゃと、夕餉の膳を前に笑っていた。 そんな母の邪魔をしたくないから我慢しているが、今夜はどうにも目が冴えて寝付けない。 気怠いあくびを噛み殺し、布団のなかで幾度目かの寝返りを打つ。 と、遠ざけた行灯の方角からふいに声がかけられた。 「―――眠れないのかい?」 母の低く唄うような声を聞くなり、頭を巡らしそっちを向いた。 灯りの脇に端座している母が、膝の上に縫いかけの布を置いている。 「・・・」 勇次は諦めて布団の上で半身を起こした。物言いや態度はどちらかと言うとそっけない母だが、 そのじつ息子のどんな些細な変化も見逃さない。水鏡のように澄んだまなざしにもその怜悧さは表れていた。 「珍しいね。いつもはあんなによく眠ってるのに――」 「・・・うん」 いくら早く寝ようが、翌朝には起こされるまでは自分から起きてこないのを呆れられているくらいだから、 不審に思われるのも無理はない。口ごもっているうちに、先に訊かれてしまった。 「どうしたのさ。・・・あんた、何か気になることがあって眠れないんじゃないの?・・・」 「―――あのさ、おっかさん」 思い切って切り出した息子の真剣な表情に、母が苦笑を浮かべた。 「あらたまっていきなり何なの」 「訊きたいことがあるんだ―――」 「・・・訊きたいこと?」 「うん。今日オレ―――見たんだ」 「見たって何を?」 「し――死人」 その一言にフッと眉をひそめた母に、勇次は我慢出来ずに昼間の話を始めた。 大人に交じってそんなものを見に行ったことを叱られるのは覚悟の上で。 野次馬の誰かが言っていた、人の恨みを買ったんだなという一言が、ずっと頭から離れなかったのだ。 語り出したら止まらなくなった。黙り込んだ母の表情の変化にも気が付かなかった。 灯りが隙間風にちらつく中、母は微動だにせずに、熱に浮かされたような息子の話を聞いている。 「―――だから、あの土左衛門は、悪いヤツ・・・の仲間だったから、殺されたんだよね?」 「・・・・・」 あたかも殺された者のほうに理由があったと言わんばかりの野次馬たちの会話を聞いているうち、 勇次はそのチラホラと噂に出て来る“仕事人”が、正義の裁きを下したのだと思い、どこか胸がすくのを感じていた。 「"かまいたち" は誰かに頼まれてあいつの首を…」 「勇次」 不意に名を呼ばれ、その冷たさに驚いて言葉を途切れさせた。 母が勇次と呼ぶときは、怒っているか何か諫言する時と決まっている。 とっさに顔色を伺ったが、青白さが幾分増したように見えるだけで母はまったくの無表情のまま、こちらを見据えている。 (・・・おっかさ・・・) こちらを見ているようで、何故だか自分を突き抜けて遠くを見ているような不思議な目つき。 勇次の胸にふと恐れが芽生えた。 「―――もうおよし。子供が余計なことを考えるんじゃないよ」 「でも」 「でもじゃない。だいたいおつかいを頼んでさ、お前がどこにも寄り道しないで帰って来たことがあるかい? しかも今日は野次馬についてくなんて!いい加減におし」 今までの冷静さが嘘のように、一度口を開いた途端、母の語気が強まっている。 あまりの剣幕に、勇次はただ驚いて母を見つめるばかりだ。 「そんなものを見ちまったせいで眠れなかったんだね」 「・・・」 「大人が何も知らないくせして好き勝手なこと言ってるだけさ。信じるんじゃないよ!」 「・・・」 「いいから忘れておしまい。もう二度とその話をするんじゃないよ。私にも、―――他の誰にも。分かったね」 「・・・・・・」 母らしくない乱暴な仕草で火鉢の上の鉄瓶を持ち上げ、湯呑に白湯をさす。急に激昂したせいなのか、 かすかに震えている手元を見たまま押し黙っている息子に気が付くと、苛立った目を向けた。 「ちょぃとお前」 尖った声で言いかけたところを勇次は思わず遮って口走っていた。 「だってっ・・・だって自分の蒔いた種は自分で刈り取るしかないんだって―――、おっかさんいつも言うじゃねぇか!」 きつく視線を据えていた母の目がハッと見開かれた。その完全に虚を突かれた顔を見た勇次も、同様に息を呑む。 (そんなに変なことを言ったんだろうか。生意気だったろうか・・・) 母が時おり、噛みしめるように口にするあの言葉。 ものの喩えであることは、母と共に旅空に暮らし、 時にこんな風にしばらくどこかに住みつく十年あまりの生活のなかで、子供ながらに理解していた。 そんな母だからこそ、人の恨みを買うような事をしたやくざたちが何者かに殺された話をして、 どんな風に答えるか知りたかった。 そしてもう一つ。男たちが噂していた“仕事人”について、母も噂を聞いたことがあるかと訊いてみたかったのだ。 「―――――・・・」 すべてが死に絶えたような沈黙が母子の間に落ちた。 こんなに重苦しい雰囲気になったことは、思い出す限り今まで一度もない。 勇次は息を殺して母の胸の辺りに呆然とした視線を当てて固まっている。 やがて白い手元からゆっくりと鉄瓶は下ろされたが、湯呑を手にした母は勇次から顔を背けるように横を向く。 落ちかかる鬢のほつれを見つめ、勇次の胸はどくどくと脈打っている。口ごたえなどしたことがなかった。 母の言う事はいつだって筋が通っていたから。きつい口調で諭されて腹を立てても、 後からはその通りだと素直に受け止められていた。口調とは裏腹に母の目には優しい情が充ちていたのを認めていたからだ。 けれど、さっきのような剣幕で一方的に話を終わらせようとする母は、知らない。 たしかに野次馬について死体騒ぎを見に行ったことは悪かったと思う。 だが、見聞きしたことについて考えてはダメだと頭ごなしに言い切る母の怒り方に違和感がある。 いつも自分で考えて決めるよう言われてきたのに。そんな小さな子供を押し伏せるような理屈に、思わずムキになった。 しかし――――。 「―――・・・ごめん・・・なさい―――」 あまりの長い沈黙に耐えがたくなり、勇次はついに項垂れ小さな声を発した。 「ごめんなさい―――、おっかさん・・・許して・・・ください」 自分の目と耳で捉えたもの、自分で考えるようになったことなど、やっぱり話さなければ良かったのだ。 母が思っているよりも、自分はもうそこまで幼い子供ではない。 しかしそれに気づかせることの方が、この育ての親にして誰よりも勇次が大切に思う女(ひと)を悲しませるのであれば・・・ 「――――勇さん」 やっと口を開いて名を呼んだ母の声音は、さっきとは打って変わって静かだった。 それでも勇次は落とした視線を上げられず、黙って俯いていた。 シュッと裾を捌く音がして、母が腰を上げこっちにやって来る。 静かに寝床の傍らに膝を折って対面に向き合った母を上目遣いに見ると、 湯気のたつ湯呑を手にした白い貌が、仄暗いなかにもハッとするほどに凄みのある美しさを湛えていた。 ぼんやりと見とれていると、母はそんな勇次に微笑みかけた。 「・・・いいんだよ。謝るのは―――私の方さ」 「?どうして・・・?」 首をかしげて尋ねたが、それには答えず無言で差し出された湯呑を受け取る時、 触れ合った母の細い指先はなぜかひどく冷たかった。 「勇さん」 「・・・はい」 「・・・あんたが知りたいことに私は何ひとつ答えられない。けど――、今はこれだけは言っておくよ」 「・・・・・」 「あんたは間違ってない。ただね・・・、世の中には知らないほうが良いこともある―――」 「・・・」 「出来る事ならば勇次、あんただけには―――――…」 ほとんど吐息に近くそれでいて物狂おしい囁きは、何故か独り言のように勇次の耳には聞こえていた。 「・・・おっ…おっかさん・・・?」 おずおずと声をかけるが、それに対して項垂れた頭を横に振った。 抜いた襟元から覗く白い項が、か細くこんなに頼りなく見えるだなんて。いつも自分がしがみついていた母の身体が、 こんなに小さかったのだと内心で驚いた。 「大丈夫。だから、ね、勇次。―――覚えていておくれ」 やがてそう言って顔を上げ、心配そうに覗き込む一人息子に無理に微笑んだ母の目に、初めて見る光るものが浮かんでいた。 ************************************* 数年後―――――― 「どうやってもムリと言ったはずですよ。どこか他所に頼んで下さいな」 銀きせるを手にしたおりくがはっきり言い切ると、手炙りの前に端然と背を伸ばした小柄な粋筋の女の前で、 堂々たる巨体に反して青びょうたんのような顔色の男が、がくりとうなだれた。 「おりく・・・、いや、も、元締」 「いまはもう違いますよ。その呼び名はやめておくれ」 あらためて上げた顔に向けて鋭く制するが、どこぞのお店の旦那風情のその初老の男は今度ばかりは引き下がらない。 「それは私が悪かった。あやまる、このとおり!」 「・・・・・」 「だがなおりくさん―――、思い出させるのも迷惑かも知れぬが、あんたと私の長い付き合いだからこそ、 こうして今夜、やむにやまれず押しかけて来たんだよ―――」 「・・・・・」 「私も昔は色々と人さまに言えぬ悪行を重ねてきた男だ。こんな野郎がずっと後になって出来た一人娘のことで、 なんとしてもその幸せを守り抜いてやりたいと―――そう願うのは、やっぱり罪かえ・・・」 「・・・・・」 「自分ひとりのことなら、いまさらあんたに仕事を頼んでまで火の粉を払うような往生際の悪ぃ真似はしねぇよ・・・。 分かるはずだ。あんたも人の親になったなら―――」 そこでじろりと無言で目を向けたおりくの視線を受け止める男の目には、 裏社会での顔役でもあった頃の鋭い光が浮かび上がった。 「私はあの子を――お菊をどうあっても、無事に横山家に嫁がせたい」 「・・・行儀見習いで上がったお屋敷で若様に見初められたってね・・・」 相変わらずのそっけない物言いながら、ちゃんとその辺りの動向は眼と耳に入れておいてくれたらしい。 ホッとして思わず眉を開きかけるのを、慌てて引き締めうなづいた。 「―――そうなんだ。町人の娘が武家の嫁なんかつとまるか・・・なんて、周りは言いたい放題だが、 作法から何から徹底的に磨かれたいまのお菊を見りゃ、ぐうの音も出ねぇはずさ。あの子の幸せな婚礼まで見届けたら―― オレはこの世に何の未練もねェ。命だって、笑って捨てられる」 この女に裏の仕事を頼もうと思うのは、どんな依頼でも金ずくで引き受けようとする仕事人が多いなか、 殺しに至る背景や事情というものを調べ上げた上で、依頼を受けるか否かを決断するという慎重さと、 ある意味で厳粛なまでの仕事への拘りのためだった。 「・・・卯兵衛さん。あんたのその気持ちはよく分かりました・・・。 ですが、生憎と私のほうが手が空かないもんでねぇ」 「もちろんあんた一人とは――」 「だからこそですよ。急に誰かと組んでとなっても、そううまく事が運ぶかどうかは・・・」 沈黙のあと、今度はやや心苦しそうに重い口を開く女。 男が思わず、畳に両手を付いた姿勢のまま身を乗り出しかけたその時――― 「オレがやるよ。おっかさん」 ハッと振り返ると、ほんの少し開いていた襖越し、座している誰かの気配がした。 いったいいつから――と卯兵衛が飛び上がるが、 おりくは何もないような顔で、傍らのお茶に手を伸ばしている。 「心配いりません。倅ですよ」 「えっ!!!・・・てっ…てぇと・・・まさか!?」 喘ぐような男の声に応えて、 切れ長の妖しく艶やかな目が、ちらと一瞬暗がりに垣間見えた。 会釈を寄越したきり沈黙した三味線屋の一人息子と、その母とを交互に見比べている卯兵衛の耳に、 やがておりくの凄みを隠した声がゆっくりと届いた。 「あんた。この仕事やっておくれかい、勇さん・・・?」 へい、と低く答えてスッと開いた襖の向こうに居たのは、まだ少年だった頃の勇次しか知らない卯兵衛にとって、 思わず声を失くして見惚れるほどの美丈夫であった。 「お久しぶりです、卯兵衛の旦那」 「・・・ゆ・・・勇次さん―――、あんたか・・・。こ、こいつは―――――――」 その夜、遅くまで三人で話し込んだ後、卯兵衛は料理屋に寄ったと見せかけて酒を母子と嗜み、 勇次の呼んだ駕籠で帰っていった。 「おっかさん」 「何だい?」 「―――良かったんですか?」 「何が?」 「・・・いや。オレが余計な差し出口をしちまったかと――」 器を引こうとしていたおりくは、壁際に背をもたせ掛けて子供みたいに膝を抱き、 さっきから母の様子をちらちら眺めていた息子に、破顔して白い貌を向ける。 「バカだねぇ。そんなこと気にしてたのかい。なんだか急におとなしくなったかと思えば」 「でも・・・」 「そんなに大きな図体して、小さくなってるんじゃないよ、勇さん」 「・・・」 照れたようにちょっと笑った勇次が、足を崩して胡坐をかく。 まだ半分近く酒が残っていた徳利を取り上げて二つの盃に注いだ時、ふと、おりくの胸に去来したものがあった。 「――――・・・・・」 痛みとも幸せともつかぬその感情を、ゆっくりと一度瞑目することでやり過ごす。 そんな母をジッと見つめる倅を見つめ返すと、噛みしめるようにおりくは呟いた。 「卯兵衛さんへの義理は、これでちゃんと果たせそうだね」 「そうだな、おっかさん」 「この仕事が済んだら―――、どこかよその土地に移ろうかと思ったんだが、・・・あんたはどう思う?」 勇次は伏し目になり、ゆるりと首を横に振るとフッと微笑んだ。 「オレは、どこでもおっかさんと一緒に行くよ。―――分かってるくせに」 「ふふ…。―――じゃあ頼んだよ、勇さん・・・」 ゆらゆらと陰影を立ち昇らせる灯火のもと、あとは言葉もなく静かに夜は更けていった。 了
(本当は上方弁で書きたかった。可能な方は脳内変換で…)
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