秀、除夜の鐘をきく 2









 大晦日。
 秀がすっかり日が暮れてから訪ねてゆくと、熾火にした竈のうえで土鍋がもう温かな湯気を上げていた。
「よう。遅かったな」
 返事の代わりに黙って、途中酒屋に寄って詰めて貰った大徳利を突き出す。 迷っているうちに時が経ってしまい、やっと家から出たところをちょうど帰ってきた加代とぶつかりそうになった。 首尾よく借金の回収が終わったらしくホクホク顔で「おや、どこかに泊まるのかい」と冷やかされ、 是とも否とも答えずに逃げるように長屋を出て来たのだ。
「何か手伝うか?」
「いい。居間に行っててくれ」
 勇次が太葱を切りながら背中で答えた。何度か来たことはあるのに、なんとなく遠慮しながら秀は台所の上がり口に足をかける。 いつ見ても雑多な雰囲気がなくすっきりと片付いた家の中は、住人の端然とした姿に共通するものがある。
 すすんで世話を焼きたいと思っている女たちにとってはつけ入る隙もなさそうな暮らしぶりは、 勇次の性格によるものか、それともむしろつけ入らせないために意図してやっていることなのか、いまだに秀には分からない。 分かっているのは、勇次が今年の歳の市と大晦日に自分を誘ったということだけ。
 年越しをこんなふうに誰かに迎え入れられて一緒に過ごすというのも初めてだとは、先日と同じく黙っているつもりでいる。 言われた通り奥の部屋に入って待っていると、 勇次が鍋の端を手ぬぐいで掴んで運んで来た。金網をのせた火鉢のうえにそれを置く。
「なんでそんなところに居るんだ?」
 借りて来た猫みたいに隅っこで膝を抱いている秀を見て、勇次が不思議そうな顔をした。
「・・・な・・・なんでも」
「もう支度は済んだから、あとちょっと待ってくれ」
 よほど腹を空かしているとでも思ったのだろうか。秀は持たれていた壁から身を起こすと、火鉢の前にのっそりと胡坐をかいた。
 戻ってきた勇次と向き合うと、まずは互いの杯に秀の差し入れた酒を満たした。 何か声をかけるでもなく、軽く目を見交わしただけで口をつける。
「いい酒だな」
 勇次が軽く目を細めて言った。
「何を作ったんだ?」
 目の前でふつふつと小さな音を立てている鍋を見て秀が訊くと、
「雪鍋さ」
 切り込みをいれた出汁昆布(こぶ)をしいた土鍋でつくる要は湯豆腐なのだが、表面は真っ白な大根おろしで覆われている。 その下に豆腐のほかに斜め切りした太葱の白い部分、そしてほんのりと桜色した分厚い真鱈の切り身と白子が隠れているのだった。
「豪勢だな。おろし大根で”雪”なのか」
「それもあるが、豆腐に葱に鱈とみんな白いものしか入れないからってのもある。 知り合いの料理屋に教えてもらった。寒鱈の良いのが入ったときには切り身を分けてくれるのさ。それと、こっちは蕎麦がきだ」
 蕎麦粉を練って作るごく淡い緑がかった灰色のぽってりとしたものが、小鉢に盛られて青葱を散らしてある。 これには醤油をつけてくれと言われた。ちなみに、いま江戸を出ている母おりく直伝の一品らしい。
「蕎麦はいつでも食えるからな。思い出して作ってみた」
「珍しいな」
 ふたりはゆっくりと酒を飲み、小皿によそっては鍋をつついた。 脂ののった鱈と葱からいい出汁が出ていて、自然な塩味が何もつけなくてもおいしい。 上に乗せたほんの一片の柚子の皮が香る蕎麦がきも、独特の舌触りと豊かな風味が初めて知る味覚だった。
「おめぇがこんなに料理上手だとはな」
 世辞でなく本気で感心して秀が言うと、勇次は笑って首を横に振った。
「見た目ほど手の込んだものじゃねぇさ。そういや、おめぇが何が好きか訊いてなかったな」
「・・・」
 急に話をこちらに振られて、自分のことを訊かれるのが苦手な秀は返答に困った。
「別に何だっていい。作って食わせて貰えるんなら」
 正直に言っただけだが、勇次は口元に杯を運びつつそんな秀を眺めて呟く。
「おめぇの口から仕事以外で自分からこうしたいって言うの、まだ聞いたことが無ぇや。・・・こんにゃくを食いたがったときくらいか」
 歳の市のことを思い出したのか、勇次がちょっと笑った。秀はとたんに恥ずかしくなった。 ただおめぇと来てみたかっただけだとあの日勇次は言った。 情事のための密会というわけでもなく、他愛ない時間を過ごすために。 そのことに気持ちが浮き立ってつい、雑踏のなかで自然に勇次の袖を引いていたのだ。
 寒さにいっそう冴え冴えと見える貌が軽く驚いた表情をしたあと、フッと笑って頷いてみせた。 だからというわけでもないだろうが、二人で食べた玉こんにゃくの味は記憶にあったものよりも数段おいしく感じた。 特にそれが好物というのでなくても、今後は好きな食べ物のなかに迷わず挙げられるほどに。
「・・・秀。どうかしたのか?」
「えっ・・・」
 ぼんやりと勇次を見返すと、
「今日は来た時から様子がへんだぜ」
「へん?」
「ああ。なんだかうわの空にみえる・・・」
 勇次はやはり鋭い。それとも自分が分かりやすいのだろうか。 秀は逃げられない場所に自らを追い込んでしまったような気になり、静かなそのまなざしから逃れた。 一瞬だが感傷的な想いに意識をさらわれていた。
 ただ一時の鬱屈の解放を求めて会っていた時には、自分もまだ割り切っていられた。 傷を舐めあうような情事でも満たされない別の飢えがあることを、勇次との関わりのなかで徐々に秀は知ることになる。 会うたびに一緒に酒を飲み何かを食べたりなんでもない会話をするのは、 そんな飢えを満たす不思議なひとときでもあった。そして勇次はいまも、その時間を自分のために惜しまずに与えてくれようとする。 かりそめの仕事仲間になっただけの、いつ裏切るかも分からない、しかも男の自分に―――・・・。
 黙ってしまった秀をそのままにして、勇次があらかた空になった鍋や器を部屋の隅に寄せた卓袱台のうえに引いてゆく。 その静かな所作と広い背を見ながら、これが女だったらとふと想像する。 ここにいま一緒にいるのが自分でなく、気の利く堅気の女だったらば。 勇次のことだ、何も出来ないふりをして世話を焼かせ女ごころを悦ばせてやるに違いない。そのほうが勇次自身も楽だろうに。
 視線に気づいたのかふと振り向いた男と目が合ったとき、訊いてはいけないとずっと抑え込んできた疑問が口をついていた。
「・・・勇次」
「ん?」
「こないだ言ってたよな。・・・おめぇが気にしなくたって、オレは気にするって」
「・・・。あぁ言ったぜ。それがどうかしたか?」
 勇次が秀のすぐ隣に腰を下ろしながら訊ねる。秀は手元に残した杯を覗き込むふりをしながらぽつりと訊いた。
「あれはどういう意味だったんだ・・・?だから今日、俺を――――誘ってくれたのか?」
 同情で、と言われたほうがいまの自分にとっては救いになる。今晩だけのことだと吹っ切れる。
「迷惑だったか?」
「そうじゃねぇ。そうじゃねぇけど・・・。おめぇは別な用があったんじゃねぇのか、ほんとは」
「何の話だ?」
「だから・・・っ。おめぇと年越ししたい相手もいたんじゃねぇのかよ。お・・・俺に構ってる場合じゃなく」
 のこのこやって来ておいて、何をいまさら。秀は赤い顔をして残りの酒をくいと煽ると杯を勢いつけて置いた。
「―――様子がへんだったのはそんなことを考えてたからか・・・」
「・・・・・」
「オレがおめぇを誘ったのは義理の延長だと・・・?だから今日、遅かったのか?」
 秀は顔を上げて勇次と目を合わせた。勇次の口からそれを聞くことが何故か悲しかったが、事実だった。 そしてそう思い込むことでしか、少しずつ心の領域を占める割合を増やしてきた男の存在を、 意識の外においやることが出来なかったのだ。
「そう、だ。だからずっと来ていいものか迷ってた。い、市のときもだが俺には・・・おめぇの考えがちっとも分からねぇ」
「・・・バカだな」
 しばらくの沈黙のあとで、勇次がやっと口を開いた。かと思ったら男が下を向いてククッと肩を揺らしているのに気づいた。
「?俺がかよ?」
 思わずムッとした声になった秀を、笑った声が否定する。
「いや。バカだったのはこのオレさ」
 きょとんとして隣を見ると、顔を上げてこちらをみた貌は苦笑を残したままだったが、 その目はやけに鋭い光を底に宿していて、間近に接した秀はドキリとした。
「悪かったな。オレがおめぇをそんなに悩ませてたとは知らなかったぜ」
「ち、ちがう。俺が勝手に悩んでただけだ。おめぇのせいじゃねぇ」
 秀は慌てて遮った。
「だったらいま、オレが何を考えてるかを・・・おめぇに分からせればいいんだな?」
 掬い上げるような目で見つめられ、絶句した。
「・・・。そ―――、」
 答えようにも、肩を後ろから抱くように掴んで顔を寄せてきた勇次が、何か問おうとした唇を塞いだ。 見開いたまま至近距離で見交わす切れ長の瞳に凄艶さが増し、その意図がはっきりと伝わった。
 秀の背中がかすかに震える。
「秀」
 唇を少し離して勇次が囁いた。
「なんか勘違ぇしてるんじゃねぇか」
「・・・え?」
「任せろとたしかに言ったが、好きでもない相手を買い物や年越しに誘うほどオレはお人好しじゃねぇ。・・・落語じゃあるめぇし」
「―――」
 秀の目が泳いで、また落ち着かない様子で勇次のところに戻る。
「義理人情で一緒に除夜の鐘をきくなんざ野暮の極みだぜ。言ってる意味、分かるか・・・?」
 裏の仕事ぶりでは隙のない鋭利さを見せかつ大胆な行動の取れる秀も、 ふだんの人付き合いにおいては他人と関わることに臆病で人見知りになる。 一見して誰とも距離を置いて冷たい無表情を崩そうとしないのは、傷つきやすい己を守るためだろうが、 根が真面目な熱血漢ときているので、ときに他人の窮状を見捨てられず自分が災難に巻き込まれてしまったり、 しなくてもいい苦労を抱え込んで独り悩むことになる。
 何度か一緒に仕事するうち、あるとき勇次は完全にすわった黒目がちの瞳の底に、根の深い孤独と絶望を感じとった。 オレに任せてみねぇかと声をかけていたのも、そんな不器用すぎる性格では、 遠からず仕事人としての窮地に陥るかそれとも自ら死を選ぶことになるだろうと、見るに見かねたためだ。 かつて組んだことのある仕事人のなかにはそんな男もいた。その男が命を絶ったと風の噂に聞いたとき、 同情はしなかったが、誰かひとりでもそいつの生きづらさを理解する者がいたらどうだったのかとふと思ったことを、 秀を見て思い出していた。
 もちろん最初から秀にそれ以上の興味があったのではない。 一蓮托生の仕事仲間である以上、秀の不安要素はそのまま己の身の危険に通じるからだった。 他の仕事人仲間には秘して、血に狂いそうな秀を正気に戻すために、なかば無理やりに肌を合わせた。
 あまりにも独りで片を付けることに慣れ過ぎている秀に、相手がいなければ出来ない行為を味わわせるためだ。 肉体的な屈辱もさることながら、自分を内側から暴かれ弱さと向き合わされる恐怖に、 抑えつけていた感情を爆発させた秀は、何度も泣いてお前が嫌いだと口走った。
 それでも、しだいに秀は勇次の誘いから逃げようとしなくなった。溺れるものが藁を掴む気持ちで。 生の実感を呼び戻すには生身の熱い血を通わせるには、頼るしかないと思ったのだろう。
 秀がすこしずつ人間らしさを取り戻して、目からも気配からも感じられた妖気のようなものが払われた頃。 この無愛想で孤独な錺職人の男に対して、情と呼べそうな執着を知らず知らずのうちに抱くようになった自分に、勇次は気づいていた。 いっぽう月に一度かせいぜい二度しかない密会のさい、勇次を見る目や態度に無意識に気持ちをダダ漏れさせだした秀からも、 同じものを受け取っていたのだ。
「オレがバカだと言ったのはな。そういや一度も言ってなかったと思って。・・・おめぇに好きだとは」
 いまの今まで、秀は自分たちの関係があらたな局面を迎えていることを理解していると思っていたが、 どうやらこちらの早合点だったらしい。 勇次はだから、秀に訊かれるまではそんなふたりがこうして共に過ごすのは当然のつもりでいたのだ。
「・・・・・勇次、あんまり俺を図に乗らせるなよ」
 居たたまれずに一度は伏せた赤みの射した目元をあげて、勇次を見た秀がぽつりと漏らした。酔ったように濡れて光るまなざし。 勇次がにやりとして即答する。
「図に乗ればいいだろう。我慢ばかりしねぇで我が儘言うくらいがちょうどいいんだ、おめぇは」
「・・・・・」
「それに、おめぇもオレに言うことがあるんじゃねぇのか、秀・・・?」
 肩を軽く揺さぶってからかうように訊ねると、小さく唾を飲み込んだ秀がしばらくして口のなかでなにか呟いた。 好きだと囁いて、他人事みたいに礼を言われたのはさすがにはじめてだ。 ガクッと来た勇次は次の瞬間、こみ上げてくる可笑しさと愛しさと同時に、妙な昂ぶりを覚えた。
「しょうがねぇヤツだ。俺も好きだと言えよ・・・」
 秀の首根っこを抑え込むと、今度はさっきよりも深く唇を重ねた。やや強引に歯列を割って入り込んだ舌が秀を絡めとる。
「ぅ・・――――」
 息苦しいほどなのに、気が遠のくような官能的な震えが全身を駆ける。いましがたのやりとりのせいで 頭のなかは思考停止の空白状態のまま、秀はその口づけに夢中で応えはじめていた。



 どこからかゴォ――…ンと梵鐘の音(ね)が響き渡り、 秀は夢から覚めたようにぴくりとして目を開けた。居間を照らすわずかな灯りのもと、弾みで一筋、目尻を快楽の涙が伝った。
「・・・・・。どこの寺だろう」
「さぁ・・・。まだ遠いな」
 大晦日の夜半から元日にかけて、寺院で鐘を108回つくことから百八の鐘ともいう。 梵鐘は一つの寺で108回すべてつくわけでなく、いくつかの寺が連携をし順追って数をついてゆくのだ。
 急に我に返って照れたのか、見えるはずもないのに鐘の鳴る方角を確かめようと首を逸らす秀の目元を舐め、 勇次の唇が頬から耳の後ろに回る。
「勇・・・」
「ん。この足をな・・・もっとこうしてみな」
 勇次はおかまいなしだった。自分の感じいった声を聞きながら、秀はそれを抑えることが出来なかった。 今度は向き合って腰の上に抱きかかえられて何度も揺すりあげられる。 これまでだって幾たびも同じことをしてきたのに、今夜は特に念入りに愛され、秀は秀で蕩けてひどく淫らになっていた。 腰骨から沸き上がる快感が、波がうねりながら寄せて来るように足の指先から頭のてっぺんまで全身を貫いてゆく、 終わらないその繰り返し。
(好き・・・だ―――)
 胸のなかで訴えれば内腿に力が入り、勇次の腰に自然と足が絡む。両腕でしがみついて肩に頭を擦り付ける。
「ゆっ・・・ゆうじ・・・っ、ゆ―――っ、あっっ・・・は、ぁっ・・・・・、」
 いつの頃からかいろんなことを諦めるようになっていた。淡々と生きることが自らを守る唯一の術だと疑わなかった。 人間なら誰でも持つという108もある煩悩を除くために夜を徹して打ち鳴らされる梵鐘。 それを聞きながら、己のなかにはじめて芽生えた激しく強い執着に秀は震えて、我慢出来ずに自分から唇をねだる。
 我が儘の言い方は分からなくても、この男にうまく自分の願いを引き出されてしまったようだ。 くすぐったい反面、正直怖さもある。どこまで自分は貪欲になってしまうのだろうかと。
(好きだ。俺も・・・―――――)
 勇次が低く呻いて散らばった着物のうえに繋がったままゆっくりと倒れ込むと、秀の指先の力がその背で壊れた。



 人肌もたしかに恋しい。 しかしそれ以上に欲しかったのは、隣に誰かがいることがごく自然なものであるという日常。 勇次はその他愛なくもこれまでの人生で得ることの出来なかった安息を、ひととき秀に与えてくれる。 たとえばこんなふうに。
 疲れ切って寝入っているうちに運んでくれたらしい布団のなかで、ぼんやりと傍らの寝息を聞いていた。 いつの間にか終わっていた梵鐘の余韻が、満たされた心と体の奥にまだ残っている。 閉じた雨戸の隙間から縦長の細い一条の光が射しこみ、狭い寝間を薄明りで包んだ。
 ときにはこんな朝があるならば・・・、まだもうしばらくは生き続けてみたいと思う。 せめてこの男と、こうしていられる限りは。 昨日までとはうって変わった外の世界の静けさが、妙にあらたまった晴れやかな気持ちを秀の胸に揺り起こした。
「―――正月か・・・」
 寝ていると思っていた勇次が、秀の小さな呟きに切れ長の目をふいに開いて答えた。

「あけましておめでとう」



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