ジャッカルの夜
「やっぱり女房がいる男はだめねぇ。すぐ腰が引けて来なくなるんだから・・・」 妾宅の小さな縁側に腰掛けている若い男の背後に腰を下ろすと、 女は擦り切れた浅葱色の半纏の腕にスッと手を伸ばした。 訊いたことはないが、所帯持ちならばこんな時間にやって来られるはずがない。 ひと月ほど前から時おり出入りするようになった新しい錺職人だ。 先日ひとつ買ってやった帰りしな、相談したいことがあるから何かのついでに寄って欲しいと書いた紙切れに、 いくらかの小遣いを包んで懐につっこんでおいた。 相談というのは言うまでもなくただの口実に過ぎないわけだが、 男がようやく女の元を訪れたのは、それから三日も後。 しかし宵の口もとっくに過ぎた時分に、 垣根の陰から周囲を憚るように姿を現した男の思いつめた目を見て、 女は焦らされた甲斐があったと満足した。 細工の腕もいいが、なによりこんなスッキリとしたいい男にはなかなかお目にかかれない。 若い牡の野性味を持ちながら、頬から口元にかけてどこか少年のあどけなさを残す整った容貌。 その背丈にしては線が細いが、身のこなしは精悍で敏捷だった。 妾として、主に年寄りや金に物を言わせた傲慢な旦那を相手にしている。 それだけに、職人の若いに似ずどこか翳りのある寡黙なところにも、疼くような色気を感じた。 女の手が絡みつくように腕を撫でさするも、自分から忍んできておきながら男の横顔には何の動揺も見られない。 あちこちの妾宅やそこそこ裕福な家庭に簪を届けるなかで誘惑に遭うなど、 こんな可愛い男ならば日常茶飯事ということか。 反応の薄さに、見知らぬ女たちの色仕掛けを想像し妬けてくる。 (まぁいいわ。あたしの手管を試してみれば、終わった後でそんな澄ました顔はさせないんだから) 欲しいと思ったものはたとえ他人(ひと)のものだろうが何でも、しかも根こそぎ欲しくなる。 甘い蜜を飽きがくるまで。もしくは次の美味しそうなものを見つけるまで。 またぞろむくむくと頭を擡げてきた己の性情が、 今回巻き込まれた一組の男女のささやかな幸せと人生とを破滅に追いやったことに、 女は気づかない。仮に知ったとして、だったら何さと鼻先で笑えるからこそ、 罪の意識もないまま目をつけた若い男を誘惑し、たぶらかし、口先手先で操ってきた。 男が言われるままに犯罪に手を染め、恋人であった娘が悪漢たちに手篭めにされたあげく自らの命を絶ったことも、 女には対岸の火事としか思えず、言いなりになっていれば良かったのに死ぬなんてバカな娘だと、 涼しい顔して暮らしているのだった。 しかしあの若い大工には、もう飽きがきていたところ。しつこくされると煩わしくなる。 ちょうど自分のほうから自滅してくれて良かった。 女の関心は、娘の仇を討ちに行きあべこべに惨殺された男からすでに遠のき、目の前の芳しい男に吸い寄せられている。 反応してこない男の腕を胸元に抱き込むように引いて立ち上がると、 寡黙な錺師はのっそりと腰を上げ拒むことなく女に導かれ、奥に入って行った。 庭に面した寝所の立て切った障子越し、半分欠けた月明かりを吸った濃淡のある闇のなかで、 女は立ったままで帯を解く。素肌から絹を滑り落とせば、 どんな強固な意志の持ち主でも蕩けさせた白く光る裸身が零れ出た。 見せつけてやってるのに、先に布団に横たえた男は、最初の格好から微動だにしない。 仄かな光源の元、彫像めいた繊細な輪郭がやけにくっきりと浮かび上がって見えた。 (・・・何だろう、このひと・・・) 闇の底で息を潜めているかのように、静か過ぎる若い職人にどこか感じたことのない胸騒ぎがする。 が、同時にその危うい美しさに触れ、溺れてみたいという目眩に似た欲求が全身の血を沸き立たせている。 女は男の傍らに寝そべり、着たままの半纏に手を掛けた。 するりと両肩を剥き出しにすると、痩身ながら硬く引き締まった肉体の陰影が、 冷たい貌とは相反する肌の熱さが、女を内側から濡らした。 喉仏の浮いた、男にしては細い首に指先で触れ、皮膚の匂いを味わうように顔を近づける。 日なたの匂いのする禁欲的な痩躯、それでいて愛撫され快楽を享受することをよく知っている滑らかな肌だと、 沢山の男と肌を合わせてきた女は直感的に思った。いったい、この不思議な男は何者だろうか。 はだけた平らな胸で息づく乳首にすら、女の自分でも妙な官能をそそる淫靡さがある。 しかしそれだけの色気を発散させておきながら静かな息遣いを繰り返すだけの男に、 もはや引き返すことの出来ない激しい情欲が込み上げた。 ぁあ、と声に出して喘ぎつつ女は男の上に身を投げうち、白い腕(かいな)で首にしがみついた。 今まで無感動に横たわっていた男が、ようやくそろりと反応した。 裸の胸を荒い呼吸を吐きつつ擦り合わせている女の背に、左手を回して抱きとめる。 そうして女を自分に密着させておいて、気配もなく上がった右手には何か鋭利なものを掴んでいた。 愛撫のように女のうなじを左手がなぞり、 乾いた掌の熱の心地よさに女が目を閉じたところにーーーーーーズブリと鈍い音を立て、 鋭利な切っ先が盆の窪を正確に刺し貫いた。 「ひ・・・っ!!?ーーーーーー・・・・・」 首を引きつけゆっくりとさらに深く肉にめり込ませる男の両手は、鋼のごとき強靭さをもって、 女の断末魔の悲鳴はおろか痙攣さえも抑え込む。やがて目を開けたままがくりと頭が落ち、 女の体が完全に弛緩したのが伝わると、出入りの錺り職の男ーーー秀は、 標的(まと)の首から道具を抜き取ると、重くのしかかる女の裸身の下から逃れ出た。 闇のなか、簪の冷たい銀の輝きと秀の黒い瞳だけが鈍い光を宿している。 「・・・・・」 半纏を元どおりに着込むと、秀は一度閉じた障子の前で直立のまま動かずにいた。 が、結局女を振り返ることなく、引き手に指を掛ける。するりと音もなく脱けだし、 そこから何処ともなく夜の風の中を立ち去った。 半刻ほどのち。出会い茶屋で落ち合った二人は、敷かれた布団の脇でまだ酒を飲んでいる。 といっても、飲んでいるのは主に秀の方だった。なにやら後味悪そうな面つきで、黙々と注がれる酒を空けている。 「おめぇ、なんか機嫌でも悪いのか?」 盃を手の中でもてあそびながら、自分も一仕事終えてきた勇次が尋ねる。 何もない、という意思表示のつもりか秀は癖のある蓬髪を横に振って、 ハアとため息をつくとようやく落ち着いたのか、盃を畳に置いた。 「勇次」 二人きりで会っているとき、こんなにはっきりと名を呼ばれることはあまりない。 「ん?」 顔を上げた勇次は、ごく間近に揺れる黒目がちの瞳にぞくりとした。 その目はいつになくすでに濡れていて、青眼に構えて勇次を誘いかけていた。 「・・・・・」 盃を手からポロリと畳に転がし、片手を秀の首の後ろに回して引き寄せる。 顔をやや傾けると、吸い付くようにしなやかな唇が喰らい付いてきた。口を開けて自分のほうは舌を入れずに、 しばらく秀の好きにさせてやる。そうしながら空いた方の手でクタクタに柔らかくなった半纏の肩口を引き下ろした。 下は素肌で、無防備なことに腹掛けさえ着けていない。 「徒な奴・・・」 口吸いの合間に呟くと、何か言ったか?というよう、目の前で蕩けきった淫靡な貌が問い返す。 この繊細で引きこもりがちな殺し屋の内側に、今夜どんな思いが渦を巻いているのかは分からない。 澱の如く降り積もる記憶。何度繰り返しても慣れることのない感触。勇次にも覚えはある。消せるはずがない。 (が、いまだけ忘れさせることは出来る) 自分以外の他に誰にも、この役割は果たせない。また、この役割を他の誰にも渡すつもりもない。 応(いら)えの代わりに勇次は、芳しく温もった香りを発散する肌を掻き寄せると、引きずるように隣の布団に入るのだった。 了
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