鰯 雲 秀は透き通った秋風のなか、漆喰塗りの長い塀に沿った道を歩いていた。 豪商の屋敷の並ぶこの界隈は町中と違って閑静な佇まいで、 特に裏側に面したこの通りには、御用聞きの小売商や下男下女のたぐいが出入りする以外に、目立った動きはない。 それでも高い塀の内側からは、時おり下働きを叱り飛ばす声やドッといちどきに笑う声などが遠くに聞こえ、 多くの人間の気配がする。 今年、この時期にしてはやや季節外れの野分が二回も来て、江戸の町は水害や家屋倒壊の被害が多く出た。 おかげでといっては何だが、こんな材木問屋などはいま仕事が引きも切らず商売は大繁盛で笑いが止まらないことだろう。 町の辻に臨時救済のために設けられた奉行所による炊き出しは、さすがにもうなくなったが、 住むところや身内を失くした子供や老人が、いまだ居場所の見つからぬままひしめいている避難小屋の雑多な惨状とは、まるで別世界だ。 景気の良さを表すかのように、二人がかりで大樽を届けに来た酒屋の大八車を避けたあと、 秀はなにかの薫りをふわりと鼻先に感じて、なんとなく塀のうえに目をやった。 大きな金木犀の木が何本か、はみ出すように茂っている。小さな花がぴっしりとついていて、香りはそこからむせるほどに漂っていた。 もう盛りは過ぎたらしく、パラパラと散ってゆく橙色の花はよく見れば秀の足元にも、 点々と華やかな塊りをつくって風に吹き寄せられている。 ふと、長屋の女の子がどこかで拾ってきた僅か一握りの花を、 母にねだって針と糸とでつないで首飾りを作ろうとしていたのを思い出した。従姉にあげたいと言うのを、 そんな量ではちっとも足りないと言われて半べそをかいていた。 その子の従姉は父を亡くし、母親と共にまだ避難小屋に世話になっているという話だったのだ。 秀はちらっと周囲を伺い見ている者のないのを確かめると、素早くその場に片膝をついた。 掻き寄せて掌にこんもりと山盛りにした花を何度か掬っては開いた手ぬぐいに包み、何食わぬ顔して懐の中に押し込んだ。 草履で残りの花を蹴散らし、急ぎ足でその場を立ち去ってゆく。 陽に照り映える金木犀の緑の葉の向こうに、野分のあとの涼やかな秋晴れの空が広がり、鱗のような鰯雲が美しく連なっていた。 秀はとある仕事の繋ぎをとった帰りだった。三味線屋にもすぐ繋ぎをとるようにと、別れ際八丁堀に言われている。 勇次と二人だけで会うのはそう度々ある機会ではないが、秀はあの水も滴る色男の三味線屋がどうにも虫が好かなかった。 とくに何をされたわけでもない。 最初の出会い方がかなり剣呑だったせいもあるし、秀自身がそうやすやすと他人を受け入れる性格ではないというところもある。 しかしどう自分のなかで言い訳しようと、だんだんと勇次を無視出来なくなっていることだけは否定出来なかった。 年の近い若い男同士、つとめの際に二人で組まされることも増えてきた分、 どうしたって相手の存在を意識せざるを得ないのは当然としてもだ。 あの若さで妙に落ち着き払った態度とあか抜けた振る舞いのおかげか、 ごく自然な感じで裏の仕事仲間として八丁堀や加代の信用を得てしまった。それが余計に癇に障るのだ。 同じ男というところでは八丁堀もそうだが、あの男は土台からして自分たちとは違うという思いが秀のなかにはある。 下っ端とはいえ、侍は侍だ。二本差しの体質を生理的に受け付けない秀にとって、八丁堀はもっとも身近にいる体制側の人間だった。 裏の仕事を共に手掛けるようになって数年は経つというのに、事あるごとに秀が八丁堀に突っかかっては衝突するのは、 己の立場を最優先にし決して自分の不利になるようには立ち回らないという保身の姿勢が、 臆病風に吹かれているとしか見えないからだった。 もっとも、新しく仲間となった三味線屋のおりくに言わせると、『八丁堀のは臆病なんじゃなく、慎重なんだよ』ということらしいが。 八丁堀に対する冷めた見方をしている点では、おりくの血の繋がらない息子の勇次は、秀と同意見だった。 にも拘わらず、表面上には八丁堀にたて突くこともなく、淡々とおりくに影のごとく従ってつとめをこなしている。 そんなところもなぜか、秀にはいけ好かない気障な野郎だと思わせてしまうのだった。 「珍しいな。オレとおめぇと二人きりだとは」 秀の心中を見抜いたように勇次は先に言い、頼まれものらしき四角の木箱をそっと脇に置いて笑った。 なかには上等な三味線が入っているのだろう。 ふたりの会っている川べりの壊れた漁師小屋のなかで、割れた天井から差し込む光が役者とも見まがう美丈夫の姿を照らし出す。 こんな男がなぜ仕事人など請け負っているのか、と秀は余計なことを考えそうになり、慌てて雑念を頭のなかから押しやった。 「俺も忙しいんだ。手短に言うぜ」 雑談などする気はない、と態度で仄めかすと、秀はことさら無表情を保って事務的な通達だけを淡々と告げてゆく。 どこからともなく届く花の香り。 不思議に思って振り向いたが、そこには今しがたまでと変わらず不愛想な面つきの秀が立っているだけだった。 「?なんだよ」 無言の勇次の視線になにを思ったのか、秀が警戒するような声で云うと底光りする黒目がちの瞳をこちらに据えた。 「なんかまだ訊くことでもあるのか?」 この通りのけんか腰だ。勇次は軽く肩をすくめた。なぜこの錺職人は、自分に対してはことさら風当たりがきついのだろう。 なんでも屋の加代など、母を真似たのかすっかり勇さんとなれなれしく呼ぶまでになったというのに。 ちょっとした悪戯心が勇次の胸に兆した。 「いや。おめぇからちょぃといい匂いがした気がしてな」 「?」 仕事仲間に意外なことを言われた秀は、一瞬らしからぬ戸惑いをその硬質に整った貌のうえに浮かべた。 「馬鹿なことを・・・。思い違ぇだ」 眉をしかめて即座に言い放ったが、勇次の涼しい目がまだ自分を捉えているのに気づくと、 あからさまにイヤな顔をして振り払うように背を向ける。刺し子の擦り切れた半纏の肩が風を切ると、 ふわりと体から花の薫りが掠める。 「ほら、やっぱり」 勇次はわざとその袖を捉えて口にした。秀のサッと薄く染まった頬に気づいていたのだ。 「木犀か。好きなのか、この匂いが?」 「――――」 秀は今日もっとも近くで見ることになった勇次の白皙の貌を睨んだ。 「おめぇに関係ねぇだろ」 「懐に花を仕込むとは、なかなかの粋人でも思いつかねぇ」 「・・・。そんなんじゃねぇ。頼まれただけだ」 腕を引こうとしたが、勇次はグッと掴んだ手に力をこめる。 「!何すん・・・」 「頼まれた?女に?」 違うと言いかけて、ハタと秀は口を噤んだ。そんなことをわざわざこいつに言い訳する必要もないのだ。 その僅かな隙を突いて、にやりと笑った男に掴んだ腕を強く引かれ、次の瞬間秀は勇次のほうに倒れ込んでいた。 「・・・・・!!」 抱え込むわけではなかったが、着流しの広い胸にどんとぶつかったのを、勇次の両腕が支えた。 「うん。いい匂いだ。肌にまで移ってるぜ」 耳元で背筋をぞくぞくさせるような意味深な低い声で囁かれ、 秀は体中の血液が逆流し一気に沸き立つように感じた。 無言で思い切り前に向かって突き出した手が、男の体を押し返す。 オッとアブねぇと派手によろけたが、忌々しいことに自分の力が入っていなかったせいか、 地面に尻もちをつかせるまでには到底いたらなかった。秀は舌打ちして両腕で自分を守るように両肘を抱くと、一歩後ずさりした。 「そんなに警戒することはねぇだろ、簪屋。女じゃあるめぇし」 「うるせぇ!俺はそういう冗談は大ぇっ嫌ぇなんだよ!!」 肩で息をしながら秀が言うと、勇次は何もしねぇよというように空の両手を目の前で軽く掲げてみせた。 「そりゃまぁ悪かったな。でもな、気づいてるかは知らねぇが」 「!寄るなっ」 また一歩近づきかける三味線屋を慌てて避けて秀が威嚇する。勇次がぴたりと足を止めて、苦笑しながら指をさした。 「おめぇの髪にたくさん、花が散ってるんだよ」 「え?」 秀は思わず反応して切りっぱなしの髪に手をやった。果たしてぱらりと二つの花がそれだけで地面に落ち、ふわりと甘い香りが漂った。 目の前の男の顔を見られずに、土くれに目を落としたまま秀が髪を掻き上げると、またぱらぱらといくつかの花が落ちる。 「・・・くそ、なんだこりゃ」 「木犀の下を歩いて来たんなら無理もねぇ。暗くてよく見えなかったが、おめぇの肩にも背中にも付いてるじゃねぇか」 愉快そうに男が指摘するのが面白くなかった。それでもいままでまるで気づかずに花をくっつけて歩き・・・、 それどころか花の匂いをまき散らしていたのだと思うと、気恥ずかしさで頬が熱くなる秀だった。 「もったいねぇ。似合っていたのに」 荒々しく全身から花を叩き落としてしまった秀に、勇次が言った。もう手には例の木箱を持ち、立ち去る姿勢だ。 「似合うもんか」 「オレは好きだぜ」 返す言葉に窮しただ睨み付ける目を、切れ長の涼しい目が受け止める。口元には薄い笑みが浮かんでいた。 水鏡のような澄んだ黒い瞳でジッと見返されると、いまさらだがある思いが秀のなかに浮かび上がった。 そうだ。なぜこの男を過剰に意識してしまうのか。 この男とは、目の合い方が他のものとは違っている。初めに見交わしたときから、そう感じた。 その後なんど会っても、そのたびに同じことを、同じ印象を抱いてしまう。 それだから自分は、こいつに対して特に警戒をするしかないのだと。 「・・・・・」 しばらく無言で見つめ合い、秀が動悸を抑え込むことが困難になりかけた頃、ようやく勇次が背中を向けた。 裾を粋に捌いて踵を返すその長身の姿をちょっと黙って見送ったが、 「おい。三味線野郎」 秀の呼びかけに、ちらと半分だけ勇次が白い貌を振り向かせた。 「その。教えてもらって、助かった。・・・ありがとよ」 あさっての方角を見ながらのボソリとした一言だったが、勇次は一瞬目を丸くしたあとでフッと隠しもせずに笑い、 そのまま行ってしまった。遠くから風にのって、調子のいい端唄が切れ切れに届いた。 柄にもねぇことをしてしまったと、秀はちょっと後悔して照れ隠しに鼻の下を擦り、くすんと軽く咳き込んだ。 機嫌をとるつもりなぞ毛頭ないが、知らずに戻って隣近所の加代をはじめ長屋のかみさん連中にしつこくからかわれるよりかはマシだ。 (礼はそのためのなんだからな) 秀はそう勇次に腹のなかで念を押すと、懐の手ぬぐいを花がこぼれないようにあらためて押し込み、 反対方向へと自分も密会の場所を飛び出していく。 なんとなく気持ちが浮き立っているのは、この秋いちばんの鰯雲を見たせいだろうか。 あかね射す夕暮れ、夕焼けにそまる雲の連なりは桃色とも青ともつかない美しい色で、 走って帰る秀のうえに連綿と浮かんでいた。 了
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