色は心の外/色は分別の外/孔子も倒るる恋の山/恋の山には孔子の倒れ/恋の闇/恋は曲者/恋は思案の外/恋は人の外/恋は盲目・・・ 「飽きた?さっきの女にか」 「いや、そういうわけじゃねぇが・・・」 下駄の足音が遠ざかると同時に勇次は未練もなさげに踵を返した。 ぽかんとして女の背中を見送っていた秀が、一呼吸おいて振り返る。 いますれ違ったのは、とある料理屋で働く、るいという女だった。 客の相手はしないといいながら気に入った男の客が来ると、すすんで座敷にも上がるおるいは、 勇次にも自分から秋波を送ってきていた。 ぽってりとやや受け口の唇と垂れ目に崩れた色気があり、二度ほど関係したことがある。 最後に会ったのはふた月近く前のことで、すっかり忘れていたのだが、 おるいの方では次にいつ店に来るのかと心待ちにしていたらしい。 通りで見つけるなり、目を輝かせてお久しぶりと声をかけてきた。 二、三言会話を交わし、またそのうちに・・・とか何とか気のない月並みな挨拶をすると、その意図は伝わったらしい。 一瞬がっかりした顔つきになったが、意中の男の隣に突っ立ち困った顔をしている蓬髪頭の職人にふっと目を向ける。 邪魔をしたという自覚があるのか、視線がかち合うと伏し目がちに目を逸らしたきまり悪げな表情が、 かえっておるいの自尊心を傷つけたようだ。 フンと鼻を鳴らすと、おるいは下駄の音も荒々しく立ち去っていった。 「・・・いいのか?」 よほど悔しかったのか速足でぷりぷりとよく動く臀を見送って秀が尋ねると、勇次の口から出たのがその一言だったのだ。 「じゃあ、なんに飽きたってんだ」 「飽きたっていうより―――・・・」 「?」 「・・・なんでもねぇよ」 不思議そうな秀の視線を避けて会話を終わらせ、勇次は腹のなかで溜息をついた。 最近女たちとの情事に張り合いがない。どれも似たようなものに思えてきて仕方がない。 会う前から先の展開が見えて、体よりもまず気持ちが萎えている。 そんなことをこの男に言うわけにはいかないから、勇次は口をつぐむ。 秀は妙な顔をしたが首を横に振ると、色男の悩みは尽きねぇなと、軽い皮肉を交えて呟いた。 なんとなくおかしいと感じるようになったのは、裏の仕事仲間である錺職人と関係するようになってからなのだ。 女に興味がなくなったのではなく、色恋の対象としての関心がよそに向かっていることそのものが、 勇次にとっては不本意かつ想定外の椿事だった。 しかも癪に障ることには、それをこの男はまるで気づいていない。 きっと物珍しいせいだ、と勇次は秀との何度目かの逢瀬のあと自分に言い聞かせた。 最初のきっかけを作ったときを除いて、秀は自分からは勇次を誘うことはなかった。 何も動かなければ、動かぬままに過ぎてゆくものを、会う機会もなく日が経てばこっちが悶々としてくる。 秀のほうでもまんざら、誘われて断ることはほとんどないのだが。 遊びを続けようと誘いかけた時点では、魔が差した一度きりの情事に先があったことにうろたえて、逃げを打とうとしていた。 それが。不器用な人間ほど、一度開き直ると迷いもなくなるのかもしれない。 日頃の禁欲生活で慣れているのか、待っていた様子もなく淡々と勇次の誘いに応じる秀を、憎らしく思う時もある。 体の相性は他を試したことはないから比較は出来ないが、悪くはない。むしろ回を重ねるごとに肌に馴染んできた。 それも含めて、この無愛想で無口な男を独占するということはあらゆる面で刺激的だった。 秀は余計な話をしない。そうでなくても口下手だからただ二人サシで呑むだけだ。 ごくたまに酒を酌んでいたときと違って、 これから始まる艶事の気配を双方意識しつつ知らぬ顔で飲み交わす。 その静かな高まりを愉しむひとときが、清楚な花の香に酔ったような酩酊を誘う。 口数は少なくても、秀が勇次と会話をしていないわけではない。 行儀悪く片膝立てたうえに盃を持った手をのせて、淡い酔いに身を任せている姿は、 容貌と骨の造りからくる細身のせいか、どこか中性的な色気がある。 ときおり何かを言い、返答に俯いて小さく笑う表情はふだんなら見せることもないものだ。 じわりと空気が熱を帯び、頃合いをみて勇次が手を出す。 そのときスッと笑いを収めて見つめ返してくる黒目がちの瞳に、毎度のことぞくりとさせられる。 挑むような疑うような、共犯めいたまなざし。言葉より雄弁に己の欲を訴えている。 日頃誰の目にも孤独を重んじ、そうやすやすと硬質な態度を崩さない秀が、自分の手によって乱れてゆく、 それが目にも体にも堪らなく勇次を煽りたてる。 奪い合うように激しく求め、互いの欲を遠慮なしにぶつける。 荒々しく抱いても秀はそのすべてを受け止め、なおかつ自らも貪欲に勇次を追い求める。とくに裏の仕事の後の情事には。 秀を揺さぶっているうちに、しかし勇次は自分が翻弄されているような錯覚に陥る。 達してしまえばそこで終わりというのが分かっているからだ。 幾度かの熱の奔流が去ったあと、秀はさほど時をおかずして身の始末をすると、先に密会の場所を出てしまう。 この素っ気なさ、余韻のなさが何故か勇次をして、次の逢瀬を待ちわびさせることになる。 つまりこの関係の主導は相変わらず、始めた秀の側にある。のめり込むのが怖いのかと尋ねた勇次に対し、秀は挑戦的に答えた。 絶対にのめり込まない、と。それを本人が意図してやっているのか否か。無表情の横顔からは図れない。だから余計に質が悪い。 「あの女のいる店に、二人して行ったらどうだろうな?」 「・・・。おめぇがそんな悪趣味だとは知らなかったぜ、勇次」 じろりと横目で見て鋭く言った秀に、勇次はただ肩をすくめてみせた。 今夜の勇次はどこかいつもと違う。ゆっくりと肌を辿る唇や指に身を任せながら、秀は落ち着かない気分でいた。 これまでの互いに獣となって貪り合う情事と異なり、こちらの反応を確かめるように時間をかけて愛撫される。 そんなふうにされることには馴れていない。さっさと先にすすめて、頭に空気がいかなくなって茫(ぼう)としてくる方がいい。 何も考えずに済むのだから。 「・・・っ・・・・・ゆぅじ・・・!」 掠れた声で勇次を急かす。長い指が後庭を犯している。 別のものが欲しくて無意識に指を締め付けてしまうほど、とっくにからだの準備は出来ているのに、勇次はそれを止めようとしない。 もどかしくて秀はさっきから閉じられなくされた内腿を引き攣るほどに震わせているのだった。 「秀」 「なん・・・だよっ・・・」 「今日もまた帰るつもりか・・・?」 「―――え?」 「オレをここまで追い込んでおいて・・・。今日はずっとここに居てもらうぜ」 こんなときに何の言いがかりかと、秀は半分閉じかけていた虚ろな瞳で男を見上げた。 「意味・・・分かんねぇ・・・っ。い、いいからはやく――――」 「そうはいかねぇよ。オレは実際、参ってるんだぜ、秀」 「・・・なんのことだ?」 「さっきの女に飽きたんじゃねぇ。おめぇのせいで、オレは女と逢う気がなくなったことに気づいたんだ・・・」 意外な告白に、秀の苦し気な身悶えが一瞬動きを止める。すぐにもがき出した。 「そ・・・、そんな出まかせ、」 「嘘じゃねぇよ。おめぇ以外の誰を見ても気が殺がれる・・・どうしてくれる?」 「それが、俺のせいっ・・・?!ふざけんなっ・・・」 ずるりと指が抜かれ、その刺激に秀が喉をのけ反らせる。 たまった唾液を飲み込んだ秀は喘ぎながら、覗き込む勇次の切れ長の瞳を睨み返した。 「そんなに女が惜しいんなら・・・、俺を誘わなきゃいいだろうが・・・っ!」 濡れた熱いものが尻のあいだに押し付けられたが、そのまま何も起こらない。勇次は耳朶に舌を這わせながら囁く。 「そう出来てりゃ苦労はしねぇ。おめぇだって誘いを断らねぇくせに―――」 冗談で言っているのか本気なのかもよく分からない。分かっているのは勇次が秀に口を開かせようとしていること。 今まで誘われたら応じるというその一線を守り、沈黙を続けていた秀に、何かを言わせたがっている。 「おめぇもオレと同じなのか、秀・・・?」 「・・・んなこと・・・訊くんじゃねぇよ―――」 勇次の言葉に心震え、官能に呑み込まれかけながらも、秀の声には隠せない切なさが滲んでいた。 秀の側ではもう、勇次に惹かれたときから女を抱いていない。 誘惑して、誘惑に負けて。もうこれで終わりかと思った頃に、また誘われて。 互いに果てたあと、すぐにその場を去らねば次をねだっていると受け取られそうで、いつもそそくさと出るようにしていた。 「おめぇが誘わなきゃ・・・、今後いっさい、関わりはしねぇ」 勇次がはじめに言ったようにこれは遊びなのだ。遊びを続けようと思えば決して、この関係にのめり込んではいけない。 のめり込んだらきっと、終わってしまう。あの女と同じように。 のめり込ませて手に入れたと思わせた途端、きっとそれで終わりだ。自分はそんなふうにはならない。 「秀、おめぇほんとにそれでいいのか・・・?」 「・・・ああ。俺は他のやつらみたいに、おめぇのおもちゃにだけは絶対にならねぇ。おめぇの思い通りになんかっ・・・」 秀がそう口走ったあと。焦らすばかりだった男の動きが変化した。 中途半端に投げ出された体で、意地になって逃れようとする秀を抱きすくめて胸の下に引き込む。 放せというのを宥めるように髪を撫で口吸いをされ、闇の中を幸いに秀の目尻にふと熱いものが滲んだ。 やっと望んでいた衝撃が下肢を襲い、秀は上ずった声を漏らしてのしかかる男の背に両腕を回し思い切り爪を立てていた。 「・・・なんでおめぇは女遊びを続けてるんだ」 唐突に秀の疑問が沈黙を破った。勇次はぼんやりと、身支度を始めた秀の背中を見やる。 勇次の女性遍歴について、秀が口を利くのはこれがはじめてだった。 「・・・・・。妬いてたのか、まさか」 秀が意外にも肩をすくめて笑った気配がした。 「そうじゃねぇ。おめぇの色恋なんざ気にしたところでキリがねぇから・・・。 けど、女と逢う気が殺がれるくらいなら、なんで俺とだけ逢わねぇ。不思議だから訊いたまでだ」 ドキリとした。これまで自分が女と連れ立っている場面に秀が出くわすこともあったが、 それを見ても秀が表情を変えることはなかった。 ふいと背を向けて知らぬふりをするばかりで、いかにもまたかという呆れかえった様子が背中越しにも伝わる。 逢う時以外にこちらには関心がまるでないのかと思っていたから、勇次も特に隠すこともせずにいた。 「おめぇに見せつけたつもりじゃなかったが」 苦笑したつもりだが、秀はからかわれていると思ったのだろう。ぷいと吐き捨てた。 「だから言ったろう。どうでもいい。―――俺には関係ねぇんだから」 自分が口にしてしまった疑問をいまさら後悔したのか、いつもの口癖が飛び出した。 勇次は起き上がり手探りで掴んだ着物を肩にひっかけると、そそくさと支度を済ませようとする秀の傍らにすり寄った。 「放せよ」 「まぁ待てよ秀・・・。関係なくはねぇだろ?これでも正直に答えようとしてるんだぜ」 「――――」 勇次に覗き込まれて秀が眉をしかめて目を逸らした。 目が口以上にものを言う秀の、心を読まれまいとする無意識の癖だ。 行燈の灯りの下でも分かる程に、目元に赤みが射している。それを見て勇次の胸にじわりと熱いものが広がった。 「たぶん、恐いからだろうな」 「恐い?・・・なんの?だれが?」 ぽかんとした顔で、秀が勇次を見た。 「だから、オレが」 「なにが恐いんだ」 とっかえひっかえ鼻緒をすげ替えるように女と関係する、恥知らずの男の口から恐いなどと聞かされても、説得力がないに決まっている。 勇次はそんな怪訝な秀の表情を見て、自嘲するような決まり悪げな笑みを口元に浮かべた。 「変わっていくことがだ。逢わなきゃいいと思うが、それも出来ず・・・おめぇにのめり込んでいく自分がさ」 秀が大きく何度かまばたきをした。視線を膝に落とし、腕を掴む勇次の手を振り払おうとする。 「ひとにはそうさせようとして、てめぇは恐いってか。今まで女たちと寝てそういうのはなかったのかよ」 「ない」 正直だがあっさりと言い切る勇次を、秀の冷たい視線が貫く。 「・・・・・なんて野郎だ。最低だな」 「秀。おめぇはどうなんだ?」 「どうって、なにが」 「オレが誘えばまた逢う気があるのかっていう・・・」 帯を締めていた手が止まった。しんと静まり返った部屋の外のどこかで、ぼそぼそと別の客の話し声が聴こえた。 秋の夜長はまだまだ更けないらしい。 「・・・おめぇバカか?そこまで俺に白状しときながら・・・。ほんっっとに懲りねぇ野郎だな!」 「やっぱり嫌か?」 「―――勇次。おめぇそれ、本気で訊いてんのか・・・?」 一度驚いて目を瞠った秀の呆れ顔が、疑わしい表情へと変化する。 「訊くというよりは口説いてる」 「・・・っ」 「”色は思案の外”ってのはホントだな。てめぇでもわけが分からねぇが、オレはどうやら・・・掴まっちまったらしいぜ」 勇次が自分の胸のあたりをポンと叩いてみせた。 悪びれない照れたような笑みを浮かべた白皙の顔を、赤面させられた秀は呆れを通り越し感心さえして眺めるしかなかった。 「・・・他人事 (ひとごと) みてぇなことを言いやがる。おめぇは本ものの色悪だな、勇次」 「ありがとよ」 ニヤリとして手を出そうとする勇次を素早くかわすと、秀は猫のようなしなやかな動きで立ち上がった。褒めたんじゃねぇぞと呟いて。 「秀?」 「俺は知らねぇ。勝手にしろ」 背中に笑いを含んだ視線を感じたが、もう振り向かなかった。タンとわざと鋭い音を立てて、襖を閉めた。 船宿の外に出ると、星も見えない時刻だった。 一陣の風が、秀の火照った体と胸のなかを心地よく吹き抜けていった。 了 (冒頭の言葉を贈ってくださったМさんへ、駄文ですが捧げます。有難うございました^^)
小説部屋topに戻る
|