忘れたふりが上手い男だと分かっていたから、伸びてきた手を秀は振りほどかなかった。 ただ一度、そうしてみたかった。自分も割り切ることが出来れば、それでいいと思って。 殺しの後で、極度の緊張と興奮が収まらないとき。同じく血を騒がせている男と闇のなかで何度となく目が合った。 それぞれの場所に戻っていきながら、ふと思う。あいつならこんなとき誰かを抱くのだろうか。 独りの寝床で己を慰めて内側の騒めきを鎮める。 そのときに想像するのは決まって、一瞬見交わした勇次の酔ったような目だった。目の奥に潜む昏い欲望。 本能のままに思うさま狂い暴走してみたいという、血と死の匂いに呼応して引き出される根源的な欲望だった。 だから時おり酒を付き合うようになって、ある夜ふと訪れた沈黙を勇次が破ったとき、不思議な予感すらあった。 「秀。仕事のあと、おめぇはどうしてる?」 「・・・はは。そういうおめぇはどうしてんだよ、勇次?」 どうせ女のところだろと引っ掛ければ、是とも否とも言わない艶めかしい目元が憎らしい。 血を鎮めるために女をどのように抱くのだろう。 秀の脳裏に枕絵さながらの光景が一瞬浮かび、慌てて酒で上がりかけた動悸を飲み下した。 つい最近、あらたに仲間に加わった蘭方医の一人息子順之介にも、八丁堀が言っていた。 すぐに家に戻るんじゃねぇ、親に妙に思われるぜ。女でも抱きに行って血を鎮めてから帰ぇれ。 僕は童貞ですから、と初めて手掛けた仕事にガタガタと震えて腰も立たないくせに、 あのガキはあっけらかんとそんな切り返しをしていた。 大したクソ度胸だ、それとも単なる世間知らずゆえの大バカなのかは分からない。しかし八丁堀の進言で気付いた。 まるで動揺しないと思っていた二本差しにも、まだそんなときだってあるかも知れない、と。 勇次の問いの意味するところも同じだった。それならば本当のことを言ってみたらどうなるか。 口に出すのも憚られる己の秘事を、酒の席で戯れ言に出来るなら。 「うちに帰って寝床に転がる・・・」 「・・・」 「それから。おめぇの目を思い出して、・・・てめぇでするんだ」 口元に持っていった盃の陰から、チラと同性の仕事仲間を見る。勇次は白皙の頬に苦笑を刻んでいた。 形容しがたい沈黙が場を埋める。さすがの色男も呆れて物が言えないか。 軽い酔いにのっかった無謀さを後悔し始めた頃。 「だったらこうすりゃいいじゃねぇか。・・・独りで片を付けようとしねぇで」 胡坐をかいて向き合う秀に手を伸ばし、盃を持つその手首ごと長い指で握り込んだ勇次は、そこで囁いた。 いっそオレに抱かれてみるかい、と。青みがかった黒い瞳をひたと正眼に据えられて、秀の背筋にぞくりと官能が奔る。 ただ茫然とその目を見返していた。 あまりにうまく行きすぎて、勇次の欲を剥きだしにした徒な目つきに思わず躊躇したほどだ。 勇次の手で盃を抜き取られ、そのまま頤に指が滑って、すいと喉元から垂直に降りていった。 半纏のなかに差し込まれた手がゆっくりと肩の固い筋肉の感触を確かめるように撫で、 さらにぐいと襟をはだけて秀の肌を剥きだしにした。 勇次の貌は見ずに横を向いたまま、それでも衣服を剥いでゆく温い手の感触を追っていた。 心臓は頭の醒め具合とはまるで別のところで、自分の耳で聞き取れるほどトクトクと波打っている。それが少々忌々しい。 しかし片頬に手をかけて引き寄せられ、首の後ろを掴むようにして唐突に口づけられたとき。 ぶつけるように合わさった唇と、歯列を割ってすぐさま入ろうとする荒々しさ。 勇次の興奮が伝わると、頭の内側がカッと火が付いたように真紅に染まり何も考えられなくなった。 意識せず勇次の袖に手をかけて強く引き寄せていた。 風呂敷の結び目でも解くようにするすると脱がされてしまったが、同じことをするのは秀には到底難しかった。 最初に賽を投げたのは自分だ。 だからいかにも落ち着いているように振る舞いたかったが、せいぜい背中に手を回して帯に触れるのが関の山だった。 くす、と勇次が秀のおぼつかない仕草に気づいて低く笑いを漏らす。 「・・・なにがおかしいんだよ」 「いや、なにも・・・」 不機嫌な声に笑いを含んだひそやかな声が答える。 しかしそれがかえって欲をそそったのか、勇次はもう一度深く口づけてきた。 押し倒されたのか自分から後ろに倒れたのか分からないうちに、茶屋の畳のうえに重なっていた。 自分から事態を招いておいて、肌を貪られる恥ずかしさと未知の不安に暴れる秀の足が、膳をひっかけてしまう。 銚子の倒れるかちゃんという音が、これが現実に起きたことだと秀に再認させた。 このところしばらく、裏の仕事は途絶えていた。八丁堀が公務で駆り出され、忙しくてそれどころではないということだ。 初めて秀は気づく。仕事が無ければ、血を鎮める必要はない。勇次と肌を合わすこともないのだと。 ただ一度だけのことなのに、次をぼんやり考えている自分に気づいて、秀はぶるっと頭をふって雑念を追っ払う。 そうした折の、勇次からの酒の誘いだった。 「秀?どうした」 ただ一度だけ、の罠を仕掛けたつもりで、あべこべに勇次の罠にはまっている。 一杯付き合わねぇかと不意打ちで訪ねて来られ、意識しているのを気づかれるの嫌さについ応じた。 飲むという名目だったが、それが居酒屋でなくいつぞやと同じような茶屋の一室であることに、秀は漠然と胸が騒いだ。 酒もそこそこに物欲しそうな目を誤魔化そうと、畳の縁ばかり見ていた。 その落ち着かない素振りの隙を突いて、勇次が秀の頬に指で触れた。 前と同じく手から盃を抜き取るのを阻止することも出来ずに、固まったまま瞳を見開いていた。 「・・・帰る」 背中につうっと指を這わされ、ぴくりと身を固くする。浮き出す背骨を辿る指が的確に秀の官能を暴きだそうとする。 「やめろ」 後ろに手を回してその指を振り払い、秀は風を起こして立ち上った。 「あのときのことを後悔してるんだな」 皮肉を含んだ勇次の呟きに、部屋を出ようとした秀は立ち竦んだ。背を向けたまままばたきをする。 「―――してねぇ。俺が進んでやったことだ」 「だったらなぜ逃げる」 「・・・逃げてなんかいねぇ」 反発しながらこくりと秀の喉が鳴り、体に小さく震えが奔った。勇次の視線が背中を這うのを感じる。 目で隅々まで犯される感覚に、秀は身を捩りそうになるのをグッと堪えた。 「勇次・・・。はじめからそのつもりで・・・誘ったのか?」 「・・・そうさ。はなからこうするつもりだった。先におめぇが仕掛けたからには、オレも受けて立とうとね」 何も訊かなければよかった。自分も意識していたと悟らせず、何食わぬ顔でその場の雰囲気に流されたふりをしていればよかったのだ。 そうすれば勇次のたくみな誘惑のせいに出来たのに。 「勇次。止めようぜ。あれは俺が悪かった―――。ちょっと魔が差しただけだ」 「そう言わずこのまま遊びを続けようぜ」 「・・・いやだ」 「のめり込むのが怖いか?」 「・・・っ。そんなんじゃねぇ!」 きっとなって勇次を振り向いた。 「俺はおめぇになんか・・・絶対にのめり込むもんか」 見上げてくる切れ長の目の中が笑っている。無性に腹が立ってきた。 たった一度ならず二度までも、こんな厭味な男に触れられたいと思った、そのときの自分の衝動が分からない。 「じゃあ、オレがおめぇをのめり込ませてみせるが、いいんだな」 「なんだと・・・!?」 「逃げてなんかいねぇんだろ、秀?」 秀の最初の言葉尻を捉えて、勇次がそれ以上の会話をけん制した。 立ち上った勇次の手が、睨み付けている秀の腕をつかんで引き寄せた。 秀の心音が跳ね上がった。振り払えずそのまま壁際に追い詰められる。 「勇次!」 「オレはまた、おめぇを飲みに誘うかもしれねぇよ、秀」 唇すれすれまで白い貌が迫っていたが、触れはしなかった。そのまま横に逸れると、勇次が秀の耳元に口を寄せる。 「――――・・・」 「嫌なら・・・断ってくれ」 無言で項垂れる秀の肩口で囁くと、勇次はやがて腕を引き体を離した。秀の体はそれだけでブルブルと震えていた。 勇次の熱と覚えのある匂いは、否応なくあの夜のことを甦らせる。 障子を開けて先に出て行った幅広の背中を睨むように見送ったあと、しばらくして押し殺した呟きが秀の口から零れた。 「勝手ばっかり言いやがって・・・」 一方。予定より早く店を出ることになったが、勇次は秀の不器用な動揺に妙な高揚感をそそられていた。 たまに酒を呑む程度の歩み寄りはこれまであったものの、 物言いたげな目でちらちらと見つめるだけだった無口な簪屋が取ったあの夜の大胆さは、 忘れがたい蜜の味を勇次の記憶に留めている。 一言でいえば、秀は意識せずに勇次の本能に近いところの欲望を刺激した。 欲しい獲物を見つけた獣にとって、追い詰めることもまたこの上ない愉しみになると、あいつは知っているだろうか。 うっかり好奇心を抱いて自分から近づいてしまった相手が、タチの悪い男だったと後悔してももう遅い。 魔が差しただけだと言って秀は逃げを打った。 それなら仕事仲間の男にやや本気で遊びを仕掛けようとしている自分も、十分に魔が差しているのだろう。 いつの間にか後からついて来ていた秀を振り返り、勇次は口の端を引き上げた。 了
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