今夜は綺麗に夜空が見えるだろう。牽牛と織姫は天の川での再会を果たせるはずだ。 いままで七夕祭の夜の空模様など気にしたこともなければ考えたこともなかった。 今朝がた早々に宿場を発ったときには、空は湿った雲に覆われていた。それが江戸に近づくにつれ、 風が雲を蹴散らすように晴れて来た。なんだか奇跡のように感じている。 秋の入り口らしい小さな野分(のわき)の名残か、その日は強い風が吹いていた。 江戸市中をはなやかに彩る七夕飾りは、一様に一方方向に吹き流されている。 空はよく晴れているのに、数知れない笹竹の擦れる葉鳴りはサァサァとまるで雨でも降っているかのように、 歩く秀の耳には聴こえていた。 せっかくの飾りつけが路上に落ちてしまったのも随分とあったが、 それで一年一度の七夕祭りの興が冷めるということはなさそうだ。 芝居の花道のように色とりどりの飾り物が散らばる道を、 むしろ喜んで行き来する雑踏に溶け込みながらも、秀はまだ帰ってきたという実感が湧かずにいた。 「・・・・・」 目深に被ったままの笠の庇を少し持ち上げて、 通りの辻の向こうに見えている三味線屋の見覚えある看板をそっと確かめる。 他の家や店と同じく、表どおりの柱に結びつけた笹飾りが風になびいている。 なにか眩しい景色でも見るようにぱちぱちと瞬きをして、秀は風にはためく三味線屋ののれんをしばらく見つめていた。 何を言えばいいのか。そのまえに、どんな顔して入っていけばいいのやら。 鼓動が自然と早くなり、ここに来ていきなり足がすくんだ。 自分はずっとそれだけを考えて来たが、一年前の約束など、あの男が覚えているという確証はどこにもない。 不安と期待と恥ずかしさとで徐々に膨れ上がってきた胸が、苦しい。 やはり引き返そうかとあてどなく思ったそのとき。折からの突風で勢いよく吹き飛ばされた道端の紙きれが、 秀の脚絆の足首に引っかかって止まった。拾い上げてみれば、綺麗な青い短冊だった。 誰の願い事かは知らないが、天の川に捧げるはずの願い事が、肝心の笹飾りから外れてしまったのは気の毒だ。 何の気もなしに秀は、ふとそれを裏返してそこに書かれた文字を見た。 「・・・・・」 秀は三味線屋の店先を飾る笹に目を移し、もう一度、手元の短冊に目を落とすと、 それをそのまま指で二つに折って自分の懐深くに突っ込む。 そうして顎紐を解いて笠をとりながら、頭を軽く振って足を踏み出す。 長旅の終わりをやっと意識したその黒目がちの瞳を、疲れと懐かしさにやや潤ませて。 分からないことを考えたって仕方がない。とにかくここまでたどり着いたのだから。 あの表戸を引いて中に入って顔を見て。あとのことは・・・きっと、そう、あいつに任せておけばいい。 かんざしや かへらせたまへ 吾がもとへ 天の川には届かなくても、勇次の書いた短冊の願い事を、自分が叶えられるのならば。 了
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