野ざらしを手にしたときのことを、秀はよく覚えていなかった。秀はつまづいただけだと言ったが、それだけではない。 「秀。おめぇが野ざらしをどうしたか、云わなくていいのか?」 ごく控えめに勇次が低く声をかけると、秀が怪訝な顔で勇次を振り向いた。 「どうした…?」 「やっぱり覚えてねぇのか。…行雲坊さん、それはあっしから話をいたしやす」 行雲坊は若い二人のやりとりを、面白そうに聞いていて軽く頷いた。勇次は、自分たちがふたりでその場にいたこと、 土手で野ざらしにつまづいた秀が、勇次が止めるのも聞かずにそれを手にしてしばらく見入っていたこと、近くの立ち腐れた大木の洞に 野ざらしを安置したことなどを話した。秀はまるで他人事を聞く様に、目を丸くして勇次を見ているだけだった。 「ははぁ。どうやらその野ざらしの主に気に入られたようですねぇ、秀さん」 要領よい説明を聞き終えた行雲坊が、虚空を見る目つきで前を見たまま口を開く。 「気にいられた…?なんでまた…」 「誰もがそうなるわけじゃぁござんせん。その主があんたを選んだのはね、…生前の未練と同じようなものを持つ者だったからさ」 「……!」 秀が身を固くする気配があった。目の前の床に視線を落としているが、その顔が赤面を通り越してほとんど青ざめてしまったことを、 勇次は見てみないふりをした。行雲坊の言葉には、秀を丸裸にしようとする、 決して悪意ではないが少々人の悪い下世話な興味が含まれていた。 「あたしの視たところ、女はもうずっと昔…そう、百年近く前のお方のようですよ…。秀さん、あんたも会ったでしょう?」 「……」 秀が諦めたように溜息をつくと、頷いておもむろに顔を上げた。 「へぃ。あ…会いやした。っていうか、女が俺を長屋に訪ねてきたんで…」 秀はのろのろと、いかにも気が進まないらしく長屋で起こったことを説明した。他の人間にもちゃんと見えていたこと、 ふつうの人間にしか見えなかったこと。そして実際に雨の降る昼下がりに初めて女と遭遇したときのこと…。 「…それで、"可哀想に"っていきなり女が俺に言いやした…」 「ひひっ…!それで、それからどうなりました、秀さん…」 一瞬ちらと助けを求めるような目を、秀が自分に向けたのを勇次は横目で受け止めた。なにか言うべきかと勇次が顎を上げかけたが、 秀は素早く頭を横に振って押しとどめ、また重い口を開いた。 「……。やぶから棒に言われて俺はむかっ腹を立てて、帰れと言ったんです。でも女はちっとも堪えてなくって…。それでてっきりこれぁ 気の触れた女だと思いやした」 『あんた……あの男が…恋しいんだね、………』 『男が戻るのを待っているんだね……あんたも……』 秀がほとんど泣きそうな雰囲気のまま、なし崩し的に早口で下手な説明を続けている間、勇次はあらためて秀が女に言われた 言葉の内容を聞き、己の悋気と不信によっていかに秀を悩ませ苦しめていたのかを再認せざるえなかった。 行雲坊の言う生前の未練とやらに通じるものを持つ秀だったからこそ女が気に入ったとすれば、 秀のなかにすでになんらかの葛藤や執着があったと、認めていることにはなる。 しかし、これほど実害を及ぼすまでに女の霊を増長させてしまったのは、勇次にも多大な功罪がある。秀は自業自得と言ったが、 女の言葉は、明らかに自分が引き起こしてしまった秀の現時点での苦しみを言い表していた。 「……最後に女が"あたしと同じ、可哀想にね"って言ったとたん、口が裂けて顔の皮がずり落ちやした…。それから先のことは 何も覚えてません……」 話を終えると、秀は精根尽きたように溜息をついて、水をもらっていいかと呟くように訊ねた。秀が土間に立ったときを見計らい、 勇次が行雲坊にやや膝を詰めて低く囁いた。 「あの。その日の夕方に、あっしのもとを秀が訪ねてきたときには、もう様子がおかしくなっていやした」 「……」 「いま思えば、秀らしくねぇ振る舞いばかりして…。ところが一晩泊めてやって目が覚めたときにはもとに戻ってたんです」 「ふふん」 「オレがゆうべのことを尋ねたが、ここに来たことも何一つ覚えちゃいねぇと」 秀が狭い土間の隅でこちらに背を向けたまま戻って来ない。勇次は手短に、伝えるべきところだけを行雲坊に告げたつもり だった。生き恥を晒させるようで、秀をこれ以上見ていられない。 行雲坊がなにを考えているのかは分からない。ただ気短な動作で小さく頷きながら勇次の低い声を聞き取ったあと、 「そうですか。まぁ、そんなところでしょう」 ひっひっ…と喉の奥で嗤いながら、妙に嬉しそうに両手の平を擦り合わせた。久しぶりに面白い話を聞いたというような 喜色がその薄あばたの浮いた顔に浮かんでいる。 「勇次さん、といいましたか。あんたなかなかの優男でしょう?見なくても声で分かる」 余計な口出しを皮肉られたのかと勇次はかすかないら立ちを覚えた。 「……あっしのことはこの際どうでもいいんで。連れをどうにかしてやって下さい…お願いします」 「まあまあ。気を悪くしないでくださいよ、勇次さん」 行雲坊がにやりと、ひとの悪い笑みを浮かべて言った。黄色い歯が覗く。 「年を取るとね、だんだん生きてるのが退屈になってくるんです。今さら何を視ても…オッと、 この目玉は役立たずですがねぇ。いろいろ視えるのもほんとは楽じゃない」 「……」 「それがあんたがたの話を聞いて、久しぶりにやる気が湧いてきましたよ」 勇次が振り返ると、秀が板間に上がってきて少し離れた場所に座り、二人の顔を前髪の下からじっと見据えた。 「…そいつはありがてぇや。じゃ、どうすれば?あの野ざらしはどこかに移したほうがいいんですかい…」 「そいつはあたしがやる。それで早速だがね、あんたがたにしてもらうことがあるんですよ……」 「へい。なんでもします。なにをすればいいんで?」 勇次が尋ねるまえに、食いつくように秀が生真面目に即答すると、なぜか行雲坊のひっひっ…と耳障りな笑い声が さっきより急に高くなった。 「なに、そう勢い込んで気負わなくッていいんです。いつもしていることをするだけさ…、」 「?」 二人が怪訝な顔をしているのが見えているように、笑い声はゼイゼイと苦しげに速くなる。 「ひっ…。とにかく出かけましょう…。あたしを野ざらしのところに置いてけぼりにして…。 あんたがたがふたりですることを、ひひっ、どこかで始めればいいんです」 秀と勇次は絶句して、思わず互いの顔を見てしまった。それが分かったのか行雲坊の笑い声が大きくなる。 「そんなに驚くことですかねぇ。ひっひっひ…。女をこっちから引っ張りだすには、この方法が一番…」 勇次がぼかした内容など、この薄気味悪い男の禿頭のなかには聞かずとも視えているのだろう。急に裸に剥かれたような 気恥ずかしさがこみ上げ、勇次はやや熱っぽい顔のまわりを意識した。秀はといえばとっくに明後日の方角に顔を伏せている。 「あ、いやこれはまた失礼…。からかうつもりじゃなかったンですよ。ひっ…。この目で見えないのは残念ですがね、 あんたがた次第で、女は祓えるでしょう」 白けた沈黙が狭い小屋に広がる前に、持ち前の平常心で早くも持ち直した勇次が謝礼のことを尋ねる。と同時に持参してきた 酒瓶をごとりと音を立てて按摩のひざ元に置くことも抜かりない。ちゃぷんとたっぷりとした水音を聴きつけた行雲坊が、 目じりを下げた。 「こいつは嬉しい…」 「なに。ほんのお神酒で」 行雲坊の話を勇次にしたときの八丁堀の、やけに鋭く探るような目つきを、ふと思い出した。 「ところで出かける前にあとひとつ…」 行雲坊が珍しく言いよどんだあと、腰を上げかけていたふたりを引き留めた。 「?なんです…?」 「ずっと引っかかっていたんだが…。秀さん。あんたとは、どこかで会った気がしてならないね」 見えない目が秀をしっかりと捉えている。気のせいという言い逃れなどこの男の千里眼の前には通用しないということは、すでに 分かり切っている。秀は背筋をかすかに震わせ、黒目がちの目を大きく瞬かせた。しばらくためらったあとで小声で答えた。 「…。昔…八丁堀と一緒に、あんたが訪ねてきたことが…何度か…」 思ったとおり隣の勇次が一瞬息を止めたことを、気配で感じた。 「旦那と……?」 天井に向いた灰色がかった目の玉をまた秀に戻したときには、行雲坊は奇妙な笑みを浮かべていた。 「それじゃぁ、おめぇさん……あの時の坊やですかい…」 秀は居たたまれず唇を噛んで視線を下に向けた。 「…なるほど、云われてみればそんな名だった気が……。なるほど…。そうだったのかい…」 何かを思い出している沈黙の後でしみじみとひとり納得したような男の呟きにも、秀は反応しなかったが、 「…。なにがそう、なんで?」 不意に口を利いた勇次を、弾かれたように振り向いた。 「勇…」 「あっしはその頃まだ秀にも八丁堀にも会っていねぇが。差し支えなけりゃ聞かせてもらえやせんか」 「やめろ勇次。なにもねぇ」 「秀。オレはこのお人に尋ねてるんだ。おめぇは黙っていな」 すぱりと言われて、秀は息を呑んで目を瞠り、勇次の白い横顔を凝視した。行雲坊は目の前のやりとりに耳を澄ませている。 小屋のなかにこれまでで一番長く重い沈黙が流れた。やがて掠れた声が、小さく語りかけた。 「……秀さん、あんたはまだ…伊佐治さんを忘れられねぇようだ」 「・・・・・・っ・・・」 伊佐治という名が出たとたん、秀の痩せた肩が大きく揺れた。こくりと喉を鳴らして唾を呑む。黒目がちの瞳が逃げ道を 探すようにふらふらと煤けた柱や床を彷徨い、とうとう瞼を伏せてしまったのを、勇次は目の端に捉えた。 「まさか……中村の旦那があんたを生かしていたとは、あたしもいまの今まで知らなかったよ。 …あの旦那にも存外弱いところがあッたんだね」 ひっひっと喉を引き攣らせて嗤う声を聞きながら、膝のうえに置いた両手を白くなるほど固く握り込み、 秀は勇次からも男からも顔を背けて俯いた。 想像もしていなかった内容に 愕然としながらも、勇次は秀の痛ましい様子に胸を突かれていた。これ以上聞いては、秀をいたずらに苦しめる気がする。 しかし今さらもう遅い。知りたがったのは、尋ねてしまったのは自分だった。 「…秀は、八丁堀の仕事を見たってことですかい?」 秀を針のむしろに座らせていることを百も承知で、勇次はどうしてもここまでは訊いておかねばならぬことを、ためらいながらも 口にする。行雲坊は勇次のほうを見やって頷いた。会話の流れから、自分たちが裏の仕事人であることを自ら 認めたようなものだったが、行雲坊はとうにそれを知っていたかのように、勇次の問いかけに淡々と応じた。 「見ましたよ。この子は一部始終を…。あたしと旦那とで、伊佐治さんの仇を討つところをね」 了
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