はたた神 【霹靂神】 −鳴りとどろく雷。いかずち。 ちぎれた雲と薄い水色の空のそう遠くない東のほうで、かすかにゴロゴロと神鳴りの音だけがした。 休憩に寄った峠の茶屋で、街道を江戸の方から辿りつく旅人が一様に濡れていることに、秀は気づく。 そのまま急ぎ足で濡れた笠の先端から滴をふり落としつつ過ぎ去る者もいるが、 これ幸いとばかりに飛び込んで奥に声を掛ける旅人もいる。 のんびりと茶を飲んでいると、四角の行李を背中で揺すらせながら、中背の男がひとり上がって来た。 三度笠の下から角張った顎と青々とした髭の剃り跡がのぞく。話に聞いていたとおりだ。 「おい、茶だ。うんと熱いのにしてくんな」 奥からはーい、とさっきお茶を運んでくれた、色白で丸顔にくっきりした目鼻立ちの娘の声が返された。 おなじ縁台の斜向かいに腰を下ろした、四十がらみの重厚な体つきをしたその男は、 秀のほうを見もせずに、背負っていた荷を縁台の上にどさりと下ろす。みしりと重そうな音がした。 顎紐をとって脱いだ笠をぱたぱたと手ではたいて水滴を落とし、 取り出した手ぬぐいで見える範囲の旅装を拭いている。男の動作を、秀は見ないまでも気配で観察している。 角造。またの名を銀鏡(しろみ)の仙蔵。水銀を使った毒殺を得意とする元仕事人である。 いまはもっぱら岩見の銀山などに毒の原料となる水銀を調達し、 商人と通じて必要な毒を求められた場所に届けるという、外道の運び屋稼業に仕事の軸足を移している。 仙蔵の持ち帰る毒は、仙蔵を配下に置く札差と癒着した大名を通じて、大奥にまで流れる。 市中の色町においても女郎のなかには同業者の女たちを蹴落とすため、 酒や食事にそれとなく毒を仕込もうという、己ひとりの利益のために手段を択ばない性情の女もいる。 そういう女たちにも仙蔵は水銀を横流しして、そこではねた上前は札差には内緒で己の懐に丸々収めているようだ。 女癖が相当に悪いことも、秀に与えられた情報のなかにしっかりと入っていた。 秀が座るときに居た三人の客はそれぞれに旅立ち、いまは男とふたりだけだ。 湯呑や団子を載せた皿がそのままになっているのは、娘がひとりでここを切り盛りしているということだろう。 「おまちどおさま」 ほどなく娘が盆にのせた茶とおまけの一口茶菓子を運んでくる。濡れた体を拭いて人心地ついた仙蔵は、 娘の面に目を留めたらしい。 「いやいや酷ぇ目に遭った。ここに上がってくるまでに、 いきなりたらいがひっくり返ぇったような雨に責められてな」 娘を引き留めておこうとするように話しかけつつ湯呑を手に取った。娘もお客の相手は嫌いではないと見え、 明るい双眸で男の全身にサッと視線を走らせると、濡れた旅装にいま気づいたという顔をして笑う。 「あれ、ほんとだ。ついてなかったね、お客さん」 「いいや、ついてるぜ。雨に降られなけりゃ、こうしてここで休むことはなかったし、おめぇに会うこともなかった」 案外こういう戯言を投げかけられるのに慣れているのか、いやだ、と娘は屈託ない声で笑った。 「明日は七夕さまだから、雨は困るわ。天の川が見られないのはいや」 茶店の店先には、近くの竹林から採って来たらしい笹竹に、 ありったけの華やかな飾りつけを施したものが立て掛けてある。江戸で見るものとはさすがに見劣りするが、 一年ぶりに目にする七夕かざりに秀はハッと足を止めた。さらさらと風に揺れるそれを横目にしながら、 ここで仕事の標的を待つことにしたのだった。 一年前の七夕の夜、永代橋のうえで風に吹かれながら見交わした三味線屋の切れ長の艶めいた瞳が、また瞼の裏に浮かび上がる。 胸がほんの少し熱くなりそうすると、 人の波に隠れてそっと絡み合わせた指の感触までをも探して、無意識に自分の掌を握り込んでいる。 江戸が近くなるごとに頻繁になるこの困った症状を、秀はもう己のなかでだけは認めることにしていた。 この一年、もし死なずに生き延びたとしたら・・・・・。 帰ろう、と決めたときから。 一方、仙蔵のほうは七夕かざりになど興味も示さず、もっぱら娘に気を取られている。 「そういや、神鳴りも気味悪かったぜ。それも雨が止んだあとにだ。空はすぐ晴れたってのにな。 まるで後(あと)をつけられてるみてぇにしつこかったぜ。ここまで聞こえなかったかい?」 「聞こえはしないけど・・・。でも、それって」 何を思いついたのか、娘のほうではやや固い声で言いかけてふと言葉を止めてしまう。 「おいおいなんでぇ。神鳴りに追っかけられたのがどうかしたってのかい?」 「ううん。なんでも。いいんです。・・・その、このあたりで言われてきたただの迷信だから」 言いよどむ声はあきらかに怖がっている。 興味が湧いて、チラと秀は湯呑の隙間から娘のほうを見る。男は目の前に立つ娘を見上げているが、 急に曖昧にもじもじしている様子が可愛く見えたらしく、さらにからかう口調になって重ねて訊いた。 「なんだよぉ。言えったら。そこまで言いかけて止められちゃ、焦らさせてる気になるじゃねぇかよ」 「・・・なら言うけど。ここらじゃあたしたち、そういうのをはたた神に追っかけられたって言うんです」 「はたた神?・・・なんだそりゃ」 聞き慣れない、しかも神の名のつくものが飛び出してきて、さすがに仙蔵も興ざめた声になる。 「はい、あの。晴れてるのに鳴るから、日雷(ひがみなり)様ともいうけど」 「まあどっちだっていいからよ、その神さんとやらがなんだってんだ。 追っかけて来てオレに何かくれるってのかい?」 せせら笑う仙蔵に、地元の迷信と客にはいいつつそれを本気で恐れているらしい娘は小声で答えた。 「追われたと言った者を、はたた神は火の槍で突き刺す、って」 唇を湯呑の縁に当てたまま、秀の黒目がちの瞳が一瞬ゆらりと色めき立つ。 不穏な沈黙が伝わるだけでこちらからは仙蔵の横顔しか見えない。 が、娘のほうは男の表情を正面から見るなり、サッとそのまま奥へ逃げ戻ろうとした。 「ちょぃと待ちな」 その襷掛けした着物の袖をすかさず捉え、仙蔵が粘っこい猫なで声をかける。 はいと恐る恐る振り返った娘に馴れ馴れしく手を出して、再び自分の近くに引き寄せた。 「おめぇ、名はなんて?」 「・・・す、・・すみ」 「そうかい、おすみ。いいこと教えてくれてありがとうよ、・・・ほら、手を出してみな。これはその駄賃だ。 茶代とは別におめぇにやるんだぜ」 「・・・えっ。そんな。いけません、こんなに、お客さん」 気を悪くしたと思った客に、あべこべに小遣いを渡される。娘も男にさすがに警戒を抱いたのか、 渡された額に驚いたのか、手の中に無理に押し込まれた銭を慌てて押し返そうとしている。 かまわず仙蔵は娘に酒焼けした声で囁いた。 「オレはおめぇが気に入ったぜ。 なぁ、おすみ。オレが次に江戸に戻るときにゃ必ず寄るから・・・おめぇの部屋でちょぃと休ませて貰いてぇ」 秀のところにまで、娘の恐怖が伝染してきた。秀の細い首の後ろにちりっと小さな刺激が奔る。 針の先が掠めてゆくような。 「・・・っ!そんな・・・。は、放してくださいっ。あたしそんなつもりで言ったんじゃ・・」 「どんなつもりもねぇ。おめぇがオレに吹き込んだ不吉な予言だ。 戻って来れたらオレの無事を祝ってくれと頼んでるだけだぜ。いまは時間がねぇから、後回しになるのが惜しいがな」 秀は湯呑を置くふりをしながら、ちらとそこで二人のほうに目を向けた。 娘も救いでも求めるように瞼をあげてこちらにまっすぐに目を向けた。娘の視線の先を捉えたらしい男は、 そこでようやく、斜向かいに座ったままの先客の存在を思い出したようだ。 傍若無人の振る舞いはこの仙蔵にとってはなんら珍しいものでもないのだろう。 娘の手は握ったまま、くるりと顔だけねじって、秀を見た。男ふたりの目がかち合う。 「・・・そこの兄ちゃん、なんか用かい?」 穏やかに明るく聞こえる声で男が秀に尋ねる。が、こっちを見据える黄みがかった目には爪の先ほどの笑いもなかった。 秀は面食らった顔つきでぴくんと肩を揺らし、そして餓狼のごとき視線から逃れるようにふるふると首を横に振ると、 あわてて否定する。 「い、いや、兄ぃ。おいら、何も用はねぇよ」 「ふぅん。おめぇ、さっきからえらい長居してんな。 まさか、このおすみによからぬことでも仕掛けるつもりだったとか・・・?」 「そっっ!!そんなわけねぇよ、兄ぃ。し、信じてくれよ。おいらただ、ちょぃと疲れてただけで・・・」 睨まれて震えあがっている若い男に、縋るようだったおすみのまなざしにも、かすかな失望と軽蔑が浮かんでいる。 「もう十分疲れは取れただろ。そろそろ発ったほうが良くねぇか・・・? 旅の途中に、いろいろアブねぇ目に遭いたくなけりゃな」 その言葉の終わらぬうちに、少ない荷物と笠を持って立ち上った秀は、一歩下がってゴクッと唾を飲んだ。 後ずさるように行きかけたが、仙蔵がすかさず言った。 「おいおい、茶代を忘れていくなよ」 投げ銭をして、娘など後もみずに急いで西のほうに駆けて行く秀の背中に、嘲るようなだみ声の笑い声が届いている。 半刻ほど経って、少々茶屋で余計な道草を食ったと思った銀鏡の仙蔵が、 峠の終わり近くのうっそうと木立の茂る、急な角度に湾曲した狭い坂道を急ぎ足で曲がったとき、 「!!!」 ふいに立っていた人影にビクッと思わず足を止め、反射的に腰を低くして身構えかけた。 「兄ぃ」 「・・・・・。なんだ、さっきのガキじゃねぇか」 仙蔵の声を聞くなりホッとした顔で、 さっきの茶屋で追い払った若造は子犬のように近づきかけたが、仙蔵は鋭く声を荒げた。 「それ以上近づくんじゃねぇ」 「えっ・・・?な、なんで」 さっき自分を脅しつけた男から警戒されていることに、こいつは面食らって戸惑っている。 心細げな声とやけに可愛げのあるその顔を見て、仙蔵は気が抜けた。鼻を不機嫌に鳴らして背中の荷を背負いなおす。 驚きと恐怖が一瞬極限に達し全身の血をざわめかせたのは、断じてこいつのせいではない。 背にした荷の中身のせいだ。 「てめぇ、なんだってここにいる?オレを待ってたのか?」 「す、すいやせん、兄貴。脅かすつもりはなくって、その・・・」 ぼそぼそと鼻にかかった声で言いかけるのを、唸るように遮って訊ねる。 「いいからさっさと答えろバカ。何の用だ。オレは急いでるんだ」 懐にはもちろん短刀が仕込んである。が、この丸腰にしか見えない若い男は、 そんなことなど露知らずといった無邪気な上目遣いをしながら仙蔵の前に立つと、おずおずとふたたび口を開いた。 「あの・・・。俺、兄ぃに訊きてぇことがあって、それでここで待ってたんです」 「訊きてぇこと?」 首をやや捻りつつ、仙蔵はどこかぼんやりと訊き返した。何かがおかしい。何かがへんだ。 この黒々とした瞳から、上目遣いの底知れぬまなざしから目が離せない・・・ ゆっくりと足音も立てずにいつの間にか間合いを詰めていた蓬髪の若い男が、 ふいに花が綻ぶように白い歯を見せてにこりと笑うと、 脇に下げていた右手に持った笠をポトリと地面に落とした。その音に一瞬仙蔵は、何も思わず視線を下に向けた。 男の右手のなかに残されていた細く光る銀色のものが視界のなかで一閃した直後から、 真紅に染まった目の前にやがてどす黒い紗がかかった闇が降りてくるまでの時間は、短いようで長くも感じられた。 神鳴りに打たれたような衝撃に貫かれ、 さらに至近距離に近づいていた男の空いた方の手は、 懐中に入れかけた仙蔵の手を細身のくせして信じられない力で抑え込む。 神鳴りの話など、するんじゃなかった。追われていると思ったなどと。おすみの固い声が蘇る。 『追われたと言った者を、はたた神は火の槍で突き刺す、って』 不思議な空白が流れ、やがて額の中心から銀の細い刃先が引き抜かれる。 自分で意識したこともない場所にまっすぐに突き立てられたところに、黒く深く小さな穴が空いている。 ずぶりと出てゆくかすかな肉の擦れる音を、仙蔵は細かく痙攣する己の体全体で聞いた。 うっすらと霧の出て来た深い谷に荷ごと仙蔵を落としてしまうと、 秀は額の汗を拭き、肩をごきりと鳴らしてようやく細いため息を吐く。 これが江戸に入るまでの最後の殺しだ。やっと終わった。もう終わったのだ。 弾む息がまだ収まり切れないうちに、秀は死んだ男が向かおうとしていた方向とは逆に向けて歩きはじめる。 おすみの茶屋の前は山道を迂回することで回避した。あの脂ぎったヤクザ者がいつまた立ち寄るかと、 ビクビク怯えながら店を開ける娘の心境を思うと気の毒だが、仙蔵がおすみを脅かしに立ち寄る日は永遠に来ない。 いつかそのうち、おすみもそれが分かる時が来るだろう。 懐深くにしまった己の分身を、先刻、的の額から引き抜いたあとで、秀はぼんやりと胸のなかで勇次に語りかけていた。 勇次。 俺はこの一年、おめぇの言ったとおり、どこにいても晴れた夜には空を見上げて生きて来た。 そうしてると、生き延びられそうな気がした。 江戸の空と俺のいる空が同じように晴れてたかどうか・・・。 それは分からねぇが、勇次。 おめぇが見上げてると思うと、不思議と顔を見てるような気になったもんだよ。 おめぇのあの一言がなかったら・・・。ほんとは俺はもう江戸には帰らねぇつもりでいたんだ。 そのまま消えて忘れられて、俺が逃げたんだと思われたっていい、 そのほうが互いのためにはいいんだと・・・。 だが別れる際の最後の最後に、信じて待つと。おめぇがあんなことを言うから。 俺は神鳴りにでも打たれたみてぇに驚いてたんだぜ。おめぇは知らなくっても。 おかげでこの一年俺は逃げるつもりが、 どこに逃げてもおめぇという名の空の下からは逃れられねぇんだって、やっと気づいた。 人殺しの業からも逃れられねぇのとおんなじにだ。 だから。 もし命があるならば、一年後、またふたりで七夕かざりを見るために、江戸に・・・おめぇんところに戻ると決めたんだ。 秀の足は、自分でも信じられないほどに早く進んでいる。どこにも重力を感じないほどに、 体は心は軽く、急く一方で飛ぶように一歩一歩、江戸に向けて駆け進んでゆく。 こんなにも両手を他人の血で潤びるほど濡らそうと、これほどまでに殺人の罪を重ね続けてきても、 それでも生きていたいと、いまの秀は思う。仙蔵が聞き、自分が追われているように感じた神鳴り。 はたた神がその轟音を聞かせる日は、遠い話ではないのかも知れない。 だが、いまはまだ生きている。生きたいとこんなに強く感じたことはない。 生きて、生き延びて、あの男に会うまでは。それだけを思い、そのことのみを望み、ただ前を向いて歩く。 あの男と目を、言葉を交わし、夢のなかではとうに思い出せなかった、指の温もりをこの手でじかに確かめるまで。 火の槍でふたりもろとも突き刺され、永劫離れることのないよう一握の灰に燃やし尽くされてしまうまで。 了
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