あゝ いとしくおもふものが
そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
なんといふいゝことだらう
−宮沢賢治−




反 魂 香







 夢でふたりの人間に会った。
 どちらもそう親しいというわけでもない。 昔すこしの間だけ住んだ長屋の大家と、もうひとりは鍛冶場にいるが裏の仕事人の男だった。

 目が覚めたとき、なぜまるで関係ない、 出会った時期もまったく異なる両人がよりによって一緒に秀の家に居るのかが分からなかった。 そこがどこかの調理場みたいな巨釜の煮える土間だったにも関わらず、 なぜだかそれは自分の家だという感じがあった。
 秀はその端に立っているらしく、 その場所から二人の年恰好の違う男たちが黙々とそれぞれの作業をするのを見ているのだった。
 竈には勢いよく火が燃え、巨釜からも湯気がしきりに吹き上がっていたが、 なかで何が煮えているのかは湯けむりのせいで見えなかった。 大家はにこにこというように見えて、 よくよく見ればどこか殺気だった笑いを始終しわ顔に張り付けたまま、 大きなそろばんを弾いている。
 商家で使う大きなやつだった。たかだかしみったれた長屋の大家が持っていて役立つものでもない。 大家は何度もそれをさらっては何かしら真剣に玉を弾いて勘定をはじめるのだった。 かといって大福帳のたぐいがそのへんに置いてあるわけではない。
 夢だったと分かってからも、玉を弾く音さらう音がざらついた脳の表層に張り付いていた。


 秀は表情の抜け落ちた顔で起き上がると、 操られたようなぎくしゃくした動きで外に出て井戸端で洗面し厠に行った。
 日のもとで空を仰げば、風もなく奥行きなく見える青空がまだ朝の時分だというのに広がっている。 なぜかこの空を蓋として、なかに閉じ込められている気になった。
 勇次がこの江戸の空の下にいないことを何度言い聞かせても、 それが本当のことだと思えていない自分を、もう秀は投げやりに受け入れている。
 かつて三味線屋ののれんが揺れていた町の辻をたまたま通りかかり、 そこがまだ次の家主の決まらぬまま表戸の閉じたままになっているのを見るたび、 中では三味線屋の影が、見慣れた手つきで棹を立てて切れ長の目をそれに走らせている気がする。
 こんなふうに思ってしまうのは、 勇次がそしておりくが秀には何も知らさぬまま不意に居なくなってしまったからだ。
 八丁堀にだけは先に話があったというのは、 親子の姿と気配がどこを探しても見つけられなくなったそのあとに漸く聞かされた。 お門違いだと自覚しながら秀は、それを告げにわざわざやって来た定回り同心の胸倉を掴まずにいられなかった。
「他の・・・。他の連中にも?」
 憐れむ目つきをもう隠そうともせず、八丁堀は秀に掴ませるままにして頷いた。
「おめぇに先に知られたくねぇから、他の奴らにも黙って行くと、あいつが言った」
 おりくがそんなことを言うはずがない。 これは秀とあの男のふたりだけが知っていればいいことだから。 しかし息子が煙のように消えていたいと意思を示したとき、 あの敏い女性は何かしらの仔細を察したことは違いないのだ。 勇次の意思に従い、知らない間に何処へともなく消えてしまった。
「・・・理由(わけ)はなんだ」
「理由?」
 秀はようやく八丁堀を掴んだ手を放すと、だらりと両脇に垂らしたままうつろに呟いた。
「江戸を出る理由だ」
 自分から訊ねておきながら答えを聞くまえにもう背中を向けている。 そのいつになく丸まった肩に向けて、八丁堀は唸るように投げかける。
「バカ。そんなもん、オレ達のあいだでわざわざ言い合うもんじゃねぇだろ」
 分かり切ったことを声に出して代弁されることで、 秀が押し寄せる感情の波をやり過ごそうとするかに思えた。
「・・・細工」
「あ?」
 訪問者を置いたまま外に出ようというのか、 八丁堀の脇を擦り抜けて障子戸の前に立った秀が口のなかで何か言う。
「俺の気に入ってた腕の輪の細工、あいつに取られちまったままだ」
 自嘲を含んだその声の告げた意味を、 八丁堀はどうやら自分の肚のなかだけに収めてくれと乞われているように感じ、溜息を吐いた。
「・・・しょうがねぇ甘ったれだ」
 そして秀が引き戸に手をかける前に、その擦り切れた半纏の腕をわざと乱暴に引き寄せてやった。



 勇次がふたりの間に入り込む以前にはときおりはあったその時間を過ごし、 二本差しが去った後。
 裸の秀はぼんやりと床に仰向けになったまま、いつしか降り出した雨の音を聞くともなしに聞いている。 男が使った煙管の残り香が、まだ漂っていた。

 反魂香

 天井の隅のあたりになんとなく残って見える煙のわだかまりを眺めていたら、 その言葉がふっと記憶のどこからか浮上してきた。
 印象に残っていたのは、それが勇次と見に出かけた落語の演題であり、 反魂香という伝説上の香が登場すること、 そしてそれを焚けば死者の霊を一時的に呼び戻せるということ。 そんなものがホントにあれば金儲けが出来るのになと、 高座のはねた後で二人で笑ったことなどが、今になってやけに鮮明によみがえってきた。
 『高尾』いう上方落語を江戸流に変えて演じられていた。 長屋に住み着いた僧が毎晩香を焚き鐘を鳴らす音がうるさいので、 住民に言われて長屋の月番(雑事の当番)の熊五郎が意見しにゆく。
 そこで僧は自分はもともとさる藩の武士だと身の上を語り出す。 江戸藩邸の頃に吉原の遊女、高尾太夫となさぬ仲になり落籍(ひか)せて妻としたものの、 帰郷すると藩主が高尾の美貌に目をつけてしまう。 差し出すことを拒めない男、しかし誇り高い高尾は自らの意思で藩主のものになるのを拒み、 逆鱗に触れて斬殺されてしまう。
 武士は出家して藩を去り、亡き妻の霊を弔う雲水になったのだという。 高尾が生前に男に残したのは、反魂香という香だった。それはかの遥か昔の漢の国に伝わる神秘の香で、 焚くことで死者の霊を呼び戻すことが出来るというもの。
 僧は高尾恋しさにそれを連日焚いて祈る。出て来た高尾は、
『あだにや(粗末に)焚いてくだしゃんすな。香の切れ目が縁の切れ目』
と訴えるが、僧はそなたに会いたい一心で、今宵も焚かずにはいられぬと返す。
 その切ないやりとりを目の当たりにした熊は、自分も欲しいと僧にねだるが断られる。 熊にも死に別れた女房がいて、 それを呼び戻して今見たような甘いやりとりをしたいものよと思ったのだった。
 僧が相手にしないので、熊はさっそく薬屋へ。うろ覚えの名前を薬屋と掛け合ううち、 富山の反魂丹という名になんとなくピンときて買って帰る。 早速焚いてみるが、煙いばかりで女房の霊はなかなか現れない。
 そのうち裏口を叩く音がするので、すわおいでなすったとばかり、
『おう、おめぇ恥ずかしがって裏に回ったのかい』
と声をかけると、
『バカバカしい!ちょぃと!煙くって仕方ないんだよね!』
 隣の家の女房が文句を言いに来ただけ。反魂丹とは胃腸の薬でそれを男は焚いていたのだった。

 勇次はこの話が落語のなかでも妙に好きだと言った。 オチの可笑しさもさることながら、しっとりとした情感に堪えない。 死んでもなお愛する男を想い、呼び戻されてはいつか香の絶えることを案ずる高尾の魂は、 幽霊でもいじらしく哀切だと、たしかに秀も思った。
 反魂香なるものが本当に手に入れば、自分はどうするだろうか。 呼び戻してまで逢いたい死者になど、そう心当たりはない。 自分のせいで死なせてしまった女や友人たち。そんな者のことを思ってはみたものの、 いまさらどの面下げて出て来た彼らの前にいればいいのか分からない。
 結局、持っていても焚きはしないだろうと、勇次の白い頬におちかかるひと筋の毛に見とれたまま、 秀はぼんやりと考えていた。
 顔をあげて秀を見た勇次は、なぜかフッと優しいような寂しいような笑みを浮かべて、
『オレには生きて会いたいヤツしかいねぇ』
と言ったのだった。
 そのときの酒を酌み交わしながらの会話を、そしてそのまま過ごした夜のことを、 はっきりとどこにも曇りのないまでに思い出したのは、 それを言った本人がいまここに、秀の目の前にいないからだった。


 注文の品を問屋に届けた帰り、秀はわざわざ遠回りして三味線屋へと回ってみた。 空き家だったところに、あらたなのれんが掛かっていたので驚いて思わず足を止めた。
 まったく違う商いのようで、 中から出て来た初老の男が突っ立ってなかを見ている秀のことを、怪訝そうに見上げつつ去って行く。
 秀は今朝がた見た夢のことをまた思い出した。
 長屋の大家ではなく、もう一人の逞しい鍛冶職人のほう。 そいつは何かを丸めては、土間に置いた大きなまな板の上にそれを並べていた。 人の頭のようなものが、男の手の中で器用に形作られる。 よく見てみれば、それぞれに表情が違っていた。
 泣いている、怒っている、沈んでいる・・・
 すべてがひとりの人間のさまざまな表情にも思える一方で、全部別の人間を模したようにも見える。 男は無表情に、それが何の目的でということすらにも興味がないといった風情で、 ただ黙々と土人形をこしらえていった。
 秀はそのたくさんの頭が、あの巨釜のなかで煮えているものじゃないのかと、突如として閃いた。 夢のなかでそのことに思い付き、近くに寄って確かめようとしたところで、目が覚めた。
 もうあの二人も死んでいたのだ、と元三味線屋の店先から踵をかえしながら、 ようやく秀はそのことにも気が付いた。 いったい、何が自分にそんなとりとめない不気味な夢を見させたのだろう。 すでに死んだ男が作る土人形と、その脇で何かを勘定し続ける薄笑いを浮かべた大家の顔―――。
 反魂香で呼び戻せるのが、せいぜいそんな悪夢でしかないのならば、 勇次の言っていた通り、生きた人間のなかにしか会いたいヤツはいねぇ、と秀もたしかにそう思う。
 勇次は死んではいない。ただどこかに消えただけだ。 香を焚いても出てきてはくれまい。しかしそれは、勇次にとっても同じことだ。 自分が生きている以上、勇次は秀の姿を呼び出すことは出来ない。
 あるはずもない反魂香。叶えたくても今生で叶うべくもない夢。 だからせめてものつもりで、勇次はあの銀細工の腕輪を、 いつの間にか秀の寝ているうちに手首から外し取ってしまったのだろうか。 そのときにはもう、勇次のなかでは消えることを決めていたとしか思えない。 なぜ、ともういい加減問いつくした問いを、いまでは自分自身に向けて呟いている秀だった。
 なぜ、勇次の語らずの心をもっと察することをしなかったのか。 ふたりでいればどこかかばい合う。それはお互いに想いすぎたというところにもある。 離したくない、お前のせいではないとかばい合う優しさが自分たちを弱くしてゆく危険を、 秀とても分かってはいた。手放す勇気がずっと出せずにいた。 秀よりもずっと冷徹でいられる勇次が動かなければ、秀はこのままずるずると続けていただろう。
 おそらくふたりのことが露見する前に、仕事人としての破滅にも繋がりかねなかった。 結ばれているとしか思えない見えない糸を断ち切った勇次。断ち切る側の手の痛み心の辛さを、 あの男がひとりで引き受けていった。秀は断ち切られるまで考えたこともなかった。 否、それを考えることから目を逸らし続けていたのだ。
 だから勇次のことを怨んではいない。 時間が経つうちに少しずつ、夢かうつつか分からぬままに指先を離れたこの恋の結末が、 もっとも自分たちには相応しいとすら思いはじめている。
 不思議だけれど、まだ泣いてはいない、一度も。
 いまだ覚めやらぬ夢の残滓を求めて、永くあの男の影を追い続けることになるとしても。 いつかはその存在の記憶すらあいまいになり、境界すら分からないほどに秀自身に溶け込み一体となって、 そうして勇次はずっと秀のなかで死ぬまで共に生きるのだろう。





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