花狂い







 秀にこの蜜の味を覚えさせたのは自分だ。
 ふたりが会うのは仕事を終えた後と決まっている。 それ以外に通常の生活では、繋ぎの機会を除いて関わることはほぼ無い。
 なんでも屋の加代の口から、長屋の隣人である錺師の話題が時おり出る程度だ。 たいていは無愛想で気の利かない唐変木に対する文句だったり、愚痴だったりする。 そういう時にも勇次はなんら変わらなく加代の喧しいおしゃべりを涼しい顔して聞き流しているだけで、 調子を合わせることもしない。
 少し前のことになるが、加代が珍しく秀についてそれ以外の話題を持ち出してきた。 井戸端で早朝、腹掛け姿で顔を洗っていた秀の背に、紅い点々が散っていたと。
「あいつもああしてて、案外どこかでやる事はやってんだね」
 いつも以上にあけすけではすっぱな加代の口調には、微かな悋気まじりの皮肉も見え隠れする。 それは秀の相手に対して妬くというより、浅からぬ間柄の仲間にすら決して手の内を見せようとしない一匹狼への、 一抹の淋しさや水臭さといった感情のようだ。
「そりゃ、誰だって肌恋しくなるときゃあるだろうさ。あいつも石や木じゃねぇんだ」
 唐変木と表現する加代の言葉にかけて答えたのが可笑しかったらしい。キヒヒと品のない含み笑いをもらすと、 長居の腰をようやく上げながら、昼間の店先で人様に聞かせるには憚られるようなことをペロリと言い放った。
「あいつもそうだろうけどさ。相手もか・な・り激しいみたいよお」




 月のまばゆい晩だった。
 仕事するには明る過ぎる。今夜の決行を決めた八丁堀に肚の中で毒づいた秀だが、 意外にも月は群雲にうまい具合に隠されて、その切れぎれの月明かりの下で仕事は粛々と行われた。
 この時期ともなればすでにいたる所で桜の木が花を咲かせている。 加代も順之助もすでに姿が見えず、勇次も立ち去った後だった。
「満開の花の下で死ねるたぁ運のいい野郎だ」
 唸りを上げて血刀を払った八丁堀がぼそりと言った。 聞かせたのはまだ生温かい足元の死体にだろうか。 桜の古木に背を預けた格好で絶命している侍のうえに、重たげな花影が落ちている。 あたかも己の養分となる男を取り込むかのごとくに見えた。 朝が来て誰かに見つけられる頃には、薄紅の花びらに埋もれていることだろう。 月を映して一閃した白刃が妖しい光ごと鞘に吸い込まれるのを、秀は横目に見て思わず背筋を震わせた。
「おい」
 音もなく踵を返した細く黒い影に、押し殺した声がかかる。秀が無言で振り向いた。
「憑りつかれんじゃねぇぞ」
 刀の柄に手首をかけたままで八丁堀は云った。 その昏いまなざしはジッと月を背にして立つ若い男に据えられている。 黒目がちの瞳が掬い上げるように一瞬その視線を受け止め、無感動に弾き返す。
 フッと顔を背けると、何も答えずに今度こそ背中を向けた。何かに急かされる足取りで立ち去る姿を見送り、
「あのバカが。どうなっても知らねぇぞ、オレは」
 フンと鼻で息を吐きだし、もう忘れたと己に言い聞かせて反対方向に足を帰す八丁堀だった。




 その料理屋が他の店より多少多めに人の入りがあるとすれば、一年のうちのちょうど今ごろだろう。 敷地のあちこちに植わった桜が、一斉に花を咲かせてその華やぎが客を呼び込むせいだ。
 先に着いていた勇次は角部屋の窓を半分あけて、出窓になっている部分に腰を据え酒を飲んでいるところだった。 ちょうど真正面に見ごろの桜木が一本、見る者もないままにみっしりと咲き誇っていたのを相手にしている。
 秀は少し開けた襖からするりと部屋に入り込むと、 部屋の薄暗さのなかそこだけ月の光でほの明るい窓際にいる男を見やった。
「花見にはおあつらえ向きの部屋だな」
 勇次の言うとおり、秀の立つ場所からも桜はよく見えた。白い雪のようにも見えるそれは、 無言で歩み寄ってよく見てみれば、やはり内側に燃えたつ紅を秘めた不思議な色をしているのだった。
「おめぇも飲むか」
「・・・要らねぇ」
 いつもならば駆けつけ三杯ではきかない結構な酒豪が、今日は別のことに気を取られている。 勇次が窓枠に手をかけて食い入るように花を見ている秀の腰を片腕で抱き寄せた。
 見下ろしてくる動揺を誤魔化すためのきつい視線を、切れ長の双眸が下から上目遣いに受け止める。 艶な目元は同じでも、表家業で客に愛想よく接しているときと違っているのは、 剃刀の薄刃にも似た全き冷酷さ。裏の顔が現れたときだけ外側に出てくるその凄みを隠すことなく、 今も手中におさめた獲物をどこからどう料理しようかと値踏みしている。
 見返すほどに底の見えない淵を覗く。そうしているうちにいつか淵のほうからも見つめられていることに気づく。 この闇に魅入られ囚われているのだと思いながら、帯にかかった指が結び目を解いて行く気配を、 素肌に直接触れた掌の熱をいつしか意識は追っていた。
 憑りつかれるなとあの男は忠告した。 自ら勇次のうえに屈み込みながら、もう遅い、と秀は頭の隅で呟いた。


 熱い奔流が一度去って、秀は布団のうえでまだ裸の胸を隆起させている。
 勇次はといえば、身を起こすなり素肌の肩に襦袢だけはおり、 盆のうえの徳利をおもむろに取り上げ残りの酒を杯に注いだ。 一口、二口飲んで、ちらりと布団を見やる。
「欲しいか?声が嗄れたんじゃねぇのかい?」
「・・・・・」
 小さく啼き続けていた喉が渇いてどうしようもなかったが、黙っていた。欲しいのは水と休息だ。 口に出さないのはこの涼し気な貌した絶倫に、もう音を上げたと思われるのが悔しいからだった。
 遠ざけた行燈の頼りない明るさのなかでも、 三味線屋の色男が白い頬に薄く笑みを刻んだのが分かる。 この密会中、ほとんど秀が口を利かないことは承知しているというように。 反対方向に顔を背けて、秀はやっと落ち着いた肺から声に出さず細い息を吐く。
 と、長い指が頤にかかり引き戻される。何を思うまもなく、男の肌の匂いがふたたび秀のうえを覆い、 重なった唇から温い液体が口移しに注ぎこまれた。
「・・・っ、、ん・・・」
 むせそうになりながら何とか飲み下す。 それは喉もとを過ぎたとたん熱い火酒となってジワリと胸のなかを焼いていった。 どうしてもこの男に対する憎らしさが収まらない。 口惜しい、などという生易しい言葉では到底、この身裡の焦燥やもどかしさを言い表せない。
 仕事の後にこうして肌を合わせることがもう止められないところまで、秀は追い込まれている。 受けた仕事と一括りになって、これが報酬ででもあるかのようだ。 旨いと覚え込まされた餌をちらつかされ涎を垂らす犬さながら、 頭では警鐘を鳴らしつつ、しかし体はもう反射的にこの淫靡な時間を求めている。
 身は起こしたものの、勇次の手は秀の肌を嬲ることを止めようとしない。
「・・・やめろ」
 掠れた声で抗議したが、知り尽くした指先は秀の言葉を額面通りに受け取るつもりはないらしい。 唇から喉仏を辿りくっきりと浮いた鎖骨を降りてゆく。 胸筋の谷から臍まで続く美しく浮き出た溝をなぞって遊んでいたが、そのうち胸元の小さな粒を探り当てる。
 ひくんと秀のみぞおちの辺りが波打った。 止めろと繰り返すつもりが、ツンと固さをもったままの乳首を指の腹で押し返されて喉元で止まってしまった。 男にはあっても無用なそれをまるで弦でも軽く弾くように爪先で弄られると、 むず痒くじれったい微妙な感覚に晒され、またぞろざわざわと官能がからだのあちこちから息を吹き返す。
「ここがそんなに好いか?」
 知っていることをわざと尋ねられ、秀は喉でひくつく喘ぎを何とか呑み込んでいた。 笑いを含んだ低い声でたびたび同じ言い方で弱いところを探り当てられるのは、 恥ずかしさもさることながらなぜか秀の隠れた欲望を掻き立てる。
 初めは、成り行きと好奇心に動かされ、勇次の気まぐれな誘いに自らも乗っていった。 女との交わりのなかでも、どちらかと云えば相手に任せているほうが多い面倒くさがりな自分は、 愛撫を受けることが嫌いではなかった。誰から教えられなくとも、また勇次自身が吹聴しなくとも、 この男が色の道に長けていることは見れば分かるというものだ。そんな男の手管がどんなものか、 あるいはどんな風に振る舞うのかと、 密室で二人きりになったときの男の素顔にふと魔が差すような興味を覚えた。
 もちろんただそれだけで済まないというのも、ある程度は承知していたが。 墓穴を掘るに等しい行為だったと、のちのち秀は身をもって知ることになる。 意外だったのは、自分は実は肉体の快楽に弱いうえひどく貪欲だという発見だった。
 自分の肉欲が旺盛だとは、これまで一度も思ったことはない。たまに商売女を買うときがあっても、 それは生理的な処理に過ぎず、溜まったものを出してしまえば身体と共に気持ちもすっきりと洗い流された。 勇次との情事はそれとはまったく異なっている。身と心がどちらも白旗をあげるまでどこまでも快楽を追求され、 秀の内側のさらに奥底の欲望をも暴き出そうとする。欲には果てが無いことを思い知らさせる。
「ここと―――、それからここ・・・忘れるとこだった、ここも、そうだな?」
「・・・・・、、く・・・」
 ぱさりと湿った髪を乱して、秀が勇次の手から逃れ出るように起き上がった。 まだ終わりではないことは分かっていた。それでも自分の過剰な感じ様に不安を覚えたからだ。
 今夜の睦み合いがいつもに増して熱を帯びてしまうのは、 開け放したままの障子窓からさっきからずっと花の香が漂ってくるせいかもしれない。 秀は勇次の傍らにあった盆に手をのばして銚子から直接残りの酒を飲み干すと、熱を冷ましたくて窓辺に立った。
 内腿を濡らした一糸まとわぬからだを男の眼前に晒しているが、いままでもっと恥ずかしい姿も見られてきたのだ。 緩い風を受けはらはらと音もなく花弁を散らす桜の木にも、この一部始終を覗かれていた気がした。 ふだんならば感じることなどほとんどないのに、ほの白い月光を受けて桜は妖しくどこもかしこも開ききって、 生殖器官である花の中心から受精を誘う熟れた匂いを闇に溶け込ませている。




「秀?」
 背後で衣擦れと共にもったりした空気が動く気配がして、勇次がすぐ後ろにやって来ていた。
「―――俺、憑りつかれてるのか・・・?」
 茫として花を見上げたまま、秀の口からそんな言葉が滑り出た。勇次が軽く眉を顰めて訊き返す。
「憑りつかれてるって・・・、この桜にってことか?」
 秀は答えなかった。そんな背中に目を落とし、汗の引いた冷えた痩躯を温かい肌と襦袢が包み込んだ。
「いきなり穏やかじゃねぇな。なぜそんなことを?」
「・・・。憑りつかれるんじゃねぇと、・・・あいつが、俺に・・・」
「・・・。はは」
 それだけで、何のことを秀が言っているのか勇次には直ぐに通じたらしかった。 秀に余計な忠告をするとすれば、あの二本差し以外にない。 が、遅れてここに来る前に言われたであろうその一言から、 勘の鋭いあの男がいつの頃からか自分たちの関係を見抜いていたことに、勇次は素直に感心している。 不機嫌な馬面を思い浮かべたのか、かすかに声を立てて笑った。
「笑うんじゃねぇよ。怨むぜ、勇次」
「・・・怨む?オレをか」
 そのまま秀のからだを引き寄せ抱込むと、駄々っ子を宥めるように耳もとに唇を寄せた。
「こうしてることがオレに憑りつかれてるっておめぇは思うんだな」
「・・・・・知るか、そんなこと・・・。けど、間違いなくおめぇのせいで俺はおかしくなっちまったんだ」
「ふぅん・・・。まあ、まったくオレに罪が無ぇとは言わねぇが」
 首筋に軽く唇をあてたまま会話されるだけで、背中に震えが奔る。 密着した勇次にはきっと伝わっていることだろう。
「全部おめぇのせいだろ!」
「これがおめぇのホントの姿じゃねぇか。こういうのがおめぇの欲しかったもんだよ、秀」
 あっさりと言われて秀はカッとなって腕のなかで振り向き喰ってかかった。
「・・・っ。そんなわけあるか!」
「なんで拒む?素直に認めれば楽になれるぜ。隠すことも恥に思うことも無ぇ」
「―――俺は男だぞ」
 簡単に受け入れられるわけがない。たしかに自分はこの関係に溺れかけている。 それでも、もともと自身の奥底に眠っていたものを引き出されただけだと言われては、 承服するわけにはいかない。勇次の声が、指が、唇が、からだがそれを育てたのだ。 それをこの身が心が欲するように教え込んだのだ。
「男だろうが何だろうが、好いものは好いんだ。考えるより感じてそれを認めちまったらどうだい」
「そんな話なんざ・・・」
 聞きたくないと言いかけたが、頤に手をかけた勇次が秀の喉を持ち上げ、後ろから口を塞いだ。
「!―――・・・」
「やっと口をきいたかと思えばそんなことだ。おめぇは今日はもう喋るな、秀」
 ファサリと勇次の肩から襦袢が滑り落ちる衣擦れがして、秀は前のほうに押し倒されていた。 思わず出窓に縋る。勇次は秀を前のめりの膝立ちにさせたままで深く抱込むと、背後からの愛撫を再開した。


 何度も気を遣りかけて、夢とうつつの間を彷徨い、引き戻される。 長い二本の指が口内に差し込まれ、ぬめる舌を挟むようにして内部を探り犯していた。
「・・・ぁ・・・ぁ・あっ・・・ぁぁ・・―――」
 閉じることの出来なくされた濡れた口元から、絶え間なく歓喜に満ちた悲しい喘ぎがこぼれてゆく。 もう何も考えられずただ勇次とひとつの熱を共有し奪い与え合い、どこまでも離れずに堕ちてゆく。
 ツ…と無意識に目尻を伝ったひと筋は感じたことを秀が認めたあかしでもあった。 勇次は前回の逢瀬のときと同じく、 淫らに蠢く汗の浮いた背中に口づけを落とし始める。出窓からひらりと舞い込んだ幾つかの花片。 貪欲に命を吸い上げるとも言われる花に見られながらの一夜の交歓を、惜しみ刻み込むかのように。
 おそらく数日のあいだには、また加代がなにか言ってくることだろう。 しかし、いま忘我の状態にある秀は気づいていない。 それでいい、むしろそのほうがいいと勇次は自身の自制心を護るためにも、そう思う。
 これは己のなかだけに秘めておけばいい、独占欲。 秀は気づかぬままに、この関係に溺れてゆくのだろう。 憑りつかれているのは、自分だけではなかったと。 憑りつかれてしまったのは、むしろ自分を仕事にかこつけて抱く男のほうだとは。




 すっかり天高く昇りいつか雲に隠れてしまった月の陰になり、蒼褪めた桜はふたりの窓が閉じられたあとにも、 静かに一晩中花を散らし続けた。





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