「元気か?」 やって来た八丁堀は、珍しくそんな言葉を口にした。井戸端にいた秀は近づく気配に振り向いたが、 その顔を見るなりの一言だった。 「今日はあの子は来なかったのか?」 泥を落とした青菜の入った笊に目を留め、また訊ねる。さすがにさりげなく目ざとい。 秀は笊を手にして開け放した土間に入りながら、背中で答えた。 「おつぎちゃんなら、ひまを出したぜ」 「…ひま?そりゃまたなんで」 八丁堀が胸元から出した右手で顎をこすりながら首を捻る。 秀は流しに笊を置くと振り返り、八丁堀の顔を見た。 「なに、笑ってやがる?」 「今日は質問ばかりするんだな」 ちょっと顔を天井に向けて思案したあとで目の前の秀にじっと視線を当てると、 「まあいいや。話はあとだ」 勝手知ったる様子で履物を脱ぎ捨てると、みしりと重い音を立てて板間に足をのせた。 奥の間に向かう黒い羽織の背中を目で追う。 「秀」 振り向かずに八丁堀が呼ぶ。 秀は胸元に仕込んだ冷たい獲物の感触をそっと着物の上から確かめると、いつものようにわざとのろのろと後に従った。 「おめぇは立ったままでいろ」 座敷にぞんざいに座った八丁堀はそんなことを言った。いったい何を命じるのだろうと怪訝に思っていると、 秀を立たせたまま着流しの裾からするりと手を差し入れた男が、内くるぶしから内腿を上に向けてなぞるようにした。 「・・・っ」 思わず膝が揺れる。 「なに、すんだよ…」 「いや。久しぶりだからな。たまにはおめぇにもいい思いをさせてやろうかとね。突っ込むばっかりじゃなく」 秀はドキリとして、一歩足を後ろに引きかけたが、尻にまわった片手に両足ごと抱きとられてしまう。 「い…。いらねぇよそんなもん。余計なことするんじゃねぇ。さっさと突っ込めばいいだろ」 「色気がねぇなぁ、相変わらず。突っ込めと言われてすぐに勃つもんじゃねぇんだよ」 言いながらも肉厚の手の平が、秀の内腿を何度も撫で上げる。 「やめろ…」 肌が粟立つが、それが嫌悪なのかべつの感覚が呼び覚ますものなのか、秀にもわからなくなっていた。 男たちにおもちゃにされた記憶がまだ去りも切らないうち、こうされているというのに。 八丁堀の指が下帯をかいくぐって秀の固くなりかけた牡に直接触れた。 「い、いやだ。触るなっ」 「いいから気持ちよくなれって」 慣らされたからだが先に反応して、触れられるそこ一点に熱と血が集まるような気がした。 「は…。八丁堀…」 「おう、そうやって呼んでくれると気分も上がるってもんよ。主水でもいいんだぜ」 「誰が…っ」 唇を噛んで声を殺す。こんなことをされるとは思ってもみなかった。官能に飲み込まれまいと 懸命に踏みとどまりつつ、秀は目の端で八丁堀の業物を探した。二本とも壁際に寄せて置いてある。 もし…、とまさぐる手の肌に馴染んだ温みにいつにない安堵すら覚えながら、秀は頭のすみで必死に この鬼を殺すことだけを考える。 たとえ急所を一撃で仕留めることはしくじったとしても、太刀に手を伸ばす前に何らかの痛手は 負わせられる。あとはただ刺し違えても、この男ひとり生き残ることのないように、確実に息の根を止めるまで。 八丁堀に身も心も奪い尽くされた自分だからこそ、やらねばならないことだった。 下帯をずらされ腿の付け根まで開かされた裾から、秀のあさましく反応する下肢が露わになった。 「ふ…っ、、あ…あぁっ」 欲望を正直に示す牡をはじめて口に含まれ、秀が喉を反らせて息を震わせる。内腿が痙攣し、 何とか踏みとどまろうと足が自然に開いた。双丘にまわされた八丁堀の手が 後ろの窪みをも探っている。押し開かれたそこが少しずつ指を飲み込んでゆく。官能を誘い出す指の動きに、 熱を持った内壁が応え始めるまでさほど時はかからなかった。 「…どうだ?」 男の声はいつもの嬲りつける調子でなく、秀の素直な反応を慈しむかに聞こえた。ぐらつく上体を 支えるため、秀がやや前にのめる形で、八丁堀の着物の肩を指で強く掴んだ。 「ぁ…、ぃ…好い・・・・・八丁堀…」 目を閉じて自分でも信じがたい程に淫らな言葉を口走り、男の仕儀に身を任せた。 八丁堀を殺すのは自分しかいないと思い定めたから、悦びを感じてしまうわが身を受け入れられる。 むりやりこんな関係を結ばされて数か月。しかし今よりずっと以前から、 この男の存在を本能的に恐れつつもどこかで強く求めていたことを、 秀はいまになって自分自身に認めようとしていた。八丁堀の意図と自分のそれとでは、互いを求める形が甚だしく違ってはいたが。 秀は仕事人の生業を続けるあいだ、この男をたしかに必要としていたのだ。 「ぁっ…、…は…。ぁ…」 ( ほかの誰にも殺らせねぇ…。あんたは俺のもんだ…) 掠れた声で切れ切れに喘ぎながら、秀は空けておいた右手を袖口に隠すと胸元の簪を握りこんだ。懐かしささえ 感じるその感触をぐっと確かめる。快感に惚けたような目つきで見下ろすと、自分に奉仕する 男の太い襟首に狙い定めるような視線を当てた。無意識に流した一筋の涙が細く頬を伝っていた。 ( 八丁堀…。あんたに犯されるまで、俺はあんたを…父親みてぇに…これでもずっと慕ってたんだぜ… ) ( あんたのそばにいたら俺はいつまでたってもガキのままのような気がしたから…あんたから離れようとしたのに…) 「・・・・・ったく。おめぇはまだまだだなぁ。殺るつもりなら迷わずとっととやらねぇか」 ふいに秀のからだを解放した八丁堀が、唸るような声で叱責する。 「・・・・・、、うるせぇ…」 「オレがせっかくおめぇの仕事のしやすいように、尺ってやってたってのによ」 秀はうなだれて、だらりと両手を脇に下ろした。ちゃりんと涼しい音とともに簪が畳に滑り落ちる。 「オレが憎いんだろうが」 「・・・・・」 「オレもただで殺られてやるわけにはいかねぇが、おめぇがその気でかかれば相討ちには出来たかもしれねぇぜ」 「なんでだよ!」 「あ?」 「俺を籠の鳥にしたくせに、どうして殺させようとする?」 充血した赤い目で睨み付ける秀を見上げた八丁堀がぬけぬけと言った。 「それはな。…おめぇの殺気がオレには必要だからさ」 「・・・っ・・」 「おめぇから殺してやりてぇと思うくらいの情を寄せられなきゃあ、オレの血を宥める役には立たねぇ」 それを聞いた途端、残酷でどこまでも身勝手な男に対する強い憎しみが、あらためて秀の胸の奥に燃え上がった。 「あんたの狂気に見合っただけ、俺に憎ませようと…?」 女はむりに抱かれた男に惚れることさえあるという。だが同性である秀が、己をいびつな形で凌辱し矜持を打ち砕いた男に 惚れることなどあるはずがない。しかし焦がれるほどの烈しさで憎むことは出来る。 そして憎しみこそ、すべての感情のなかで最も強い執着だった。 忘れたくとも忘れられず、ほとんど恋にさえ近い妄執を相手に抱き続け、もうその憎しみなくして自分ではなくなるほどの。 「…あんたは端から俺を逃がさねえように…それを植え付ける肚だったんだ」 静かな殺意を含んだ冷ややかな秀の目を受け止めて、男が満足げに嗤った。 「それでこそ鬼の女房だぜ。仕事人を抜けたって、おめぇはオレのもんだ。オレと地獄に堕ちるさだめさ…」 秀は底光りのする目で睨み返すと、乱れた髪を払った。落ちていた簪を拾い上げ、掌でそれを弄びつつ重い口を開く。 「…あんたが来なかったあいだ…」 「あん?」 「村の若ぇ連中が来て、俺を三人がかりで犯していった…」 ぎらりとした殺気が一瞬で部屋を埋め尽くした。そのなかで秀は俯いたまま淡々と言葉を紡いだ。 「俺はその最中ずっと…頭んなかでそいつらを殺るところを想像してた。ひとりずつどう片付けようかと」 「・・・・・」 「そのとき気が付いたんだ。裏の仕事でなくたって、俺は殺しを当たり前ぇに考えてるって」 「・・・・・」 「仕事を抜けようが、俺はもう殺しがある日常にどっぷり爪の先まで浸かってんだ…。悪党を見れば怒るのを通り越して、 いっそ殺してやりたくなる…」 「…何が言いたい?」 八丁堀は訊ねたが、秀の答えはもう分かっているような声音だった。 「俺は…。…仕事人に戻ることに決めたぜ。あんたの用意した籠のなかで生きるのはまっぴらだ」 「・・・・・」 「…でもな。俺はあんたと組んで仕事はやるよ、八丁堀。もうどこにも逃げやしねぇ。 あんたが鬼の本性で自滅しないように、俺がそばで見ていてやる・・・・・それでいいだろ」 畳に片膝立てて座り秀を見上げていた男が、フンと大きく一度鼻から息を吐きだした。 「…ちぇっ。仕方ねぇなあ。オレはおめぇがずっとこうしてくれてる方がいいんだが」 「冗談じゃねぇや。このままだと俺があんたを殺すより、あんたにやり殺されるほうが先になっちまう」 にやりと笑った八丁堀が、性懲りもなく手を伸ばして秀の手首を掴んだ。 「だったらこれが抱き納めってことか」 「いい加減にしろ!」 「おめぇだって半端に投げ出されちゃ辛ぇだろ。なんたってオレがみっちり仕込んだ淫乱だからなぁ」 秀はカッと顔に朱を散らせたが、足払いをかけられアッという間に組み伏せられると、言われたとおり熱を孕んだからだが 疼くのを感じ、羞恥に首までも赤くした。 「独り寝が切なくなったらいつでも言いな…。こそっと抱きに行ってやるから」 「二度とあんたに抱かれるつもりはねぇよ…」 いまだけだ、と小声で付け足しそっぽを向いた秀の横顔を、少しのあいだ見下ろしていた八丁堀は、 寂しいような可愛いものを愛おしむような眼を一瞬でしまい込むと、 「それなら今日は覚悟してろよ」 低く呟いて重いからだを重ねていった。 それから日を置かずして、小さな隠居家を囲われ者の若い男が出ていった。そのことを源吉はあとから周りからの噂で聞かされた。 というのもおつぎがある日、泣きながら家に逃げ帰ってきたのだ。訳を尋ねてもどうしても口を割ろうとしない。 ただ、お兄ちゃんに何も言っちゃダメだと言われたと、それだけを繰り返して泣くばかり。 源吉は嫌な予感がしたが、直接秀に会いに行くことはさすがに憚られた。おつぎもまたそれきり、秀のもとに通うことはなくなっていた。 あの端然とした穏やかな表情の男が、ほんの一瞬見せる鋭い目の配りや音を立てない身のこなし方に、老人はあるときから気づいていた。 ただの錺り職人とは思えず、また同心をさほど心待ちにしているようにも見えなかった。 なにかしら仔細があってあの家に囲われていたのかもしれない。 もう会うことはあるまい、と思ったが、 そんな矢先、例の与太者三人組がそれぞれ待ち伏せをされ、不意打ちで髻(もとどり)を切られるという事件が起き、 ささやかな集落に大きな衝撃を与えた。 やったのは、秀の元に通ってきていた同心ということはまず間違いのないところだったが、髻を切り落とされた三人の恐慌は 尋常でなかったらしい。髪が結えるようになるまで外に出ることもかなわず、そののちもパッタリとつるんで悪さをするということがなくなり、 源吉をはじめとして村人たちは胸すく思いでようやく溜飲を下げたのだった。 孫のおつぎの髪にはいま、同心が言付かったとわざわざ届けてくれた、赤い玉の簪が挿してある。 かざり職とだけ書かれた木切れが軒先に揺れる長屋の前に立つと、夕飯時というのに煤けた障子戸越しに、 まだ細工の槌の細かな音が聴こえてくる。勇次は薄く口元を引き上げると、訪ないを入れる。 「居るかい」 返事は無かったが戸口を開くと、ぽつりと灯りの灯る作業机の前に座った秀がこっちを振り返った。 「なんの用だ?」 顔を見るなりぶつけてくる相変わらずの無愛想に、思わず苦笑する。 「ご挨拶だな。戻ってきたと加代が大騒ぎするから、顔見に来てやったってのに」 「ったく加代のやつ…」 さも迷惑そうに小さく呟く秀だったが、勇次を見上げた表情は隠居家で見たときより、遥かにすっきりとしていた。 「そいつは急ぎの品かい?」 「いや、そうでもねぇ」 珍しいことを訊かれて、怪訝な目をする。 「だったらちょいといまから付き合わねぇか」 どこに?と目顔で問われ、勇次が盃を呷る手つきをして見せると、呆れた顔になった。 「俺なんか誘わねぇで、女と行ったらいいだろうが」 勇次がにやりとすると、 「それとこれとは別さ。それにな、おめぇに付き合わせたい店ってのが…仕事の下見になりそうなんでね」 それを聞くなり、秀の黒目がちの瞳が、猫のそれのように鮮やかに色を変えた。勇次の背筋を快感とも呼べそうな戦慄が奔る。 沈黙のなかの共犯めいた視線の絡み合い。やっぱりこの男がいないおつとめはつまらねぇと感じている自分がいる。 「行ってくれるよな、秀…」 秀の整った顔のうえに、危険を楽しむような凄みのある笑みがゆっくりと浮かび上がる。これまでになかった艶っぽさに 目を奪われつつ、勇次は胸の奥であの二本差しに対するかすかな嫉妬を禁じ得なかった。 了
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