Cocoon - 繭 - 4
フッと気が付けば、視界はほとんど闇に閉ざされていた。 (・・・?) 秀はしばらくの間、ボーっとして、薄目を開けたところの視界の狭い闇を見つめていた。 いったいここはどこで、いつなんだろう? 自分が布団らしき柔らかいものの上に寝ているのは分かったが、この状況に至るまでのことがすぐには思い出せなかった。 ス〜ッス〜・・・とひそやかに耳の底に響く音。 規則正しいその音にぼんやり耳を傾けるうち、またぞろ眠気が襲ってきて、うとうとと瞼を下ろしかけた。 が。 (・・・・・!!?) それが人の寝息だということに気づいた途端、闇のなかで浮遊していた記憶の断片がかちりと音を立ててはまった。 秀は慌てて肘を立てて身を起こしかけたが、自分の頭のあまりの重たさに思わず呻いた。 くらくらする。もう一度背中を倒すと目を閉じてしまった。 閉じた瞼の内側までもがぐるぐるとゆっくり回っているような揺れを感じる。無意識に胃のあたりに手をやると、 酸っぱい吐き気がこみ上げそうになった。 そうだ。たしかに自分は酔っぱらって吐いたのだった。 忘年会で、酒が入るに従って無礼講の雰囲気は盛り上がっていった。 秀は最初、パート勢と同じテーブルについてウーロン茶を飲んでいたのだが、 途中で「村上くん」と誰かに呼ばれた。振り返ると、営業部でも一番陽気な社員のおじさんだった。 おじさんと云っても三十代だから失礼なのだけれど、いつも鬼嫁に仕切られているという自虐ネタを持ち出しては、 周囲に突っ込ませて自分でも喜んでいるようなムードメーカーだった。 そのひとが、「ちょっとこっちにおいでよ」とトイレに立ったついでに秀を見つけて声をかけたのだ。 秀は、ジョッキを豪快に空けながら仕事中よりも意気揚々としゃべりまくる、 パートのおばさんたちの世間話や噂話に正直頭が痛くなっていたところだ。 おばさんたちも見るからに居心地の悪そうな学生の秀を、これ幸いと喜んで送り出してくれた。 せっかく左門さんがいるから、と思って出てみたものの、実際には席は遠くへだたり、 時おり大きな笑い声のなかに声を聞く程度だった。 馬鹿だな、と何を期待していたわけでもないはずの自分が、それでものこのことこんなところにやって来て、 末席で彼の声を聴いていることが愚かしい。 ぼんやりとただ座っていた秀に、そのひとが声をかけて来なければ、その日はそれで終わってしまっていただろう。 しかし夜はまだ、終わってはいなかった。 「学生なんだから合コンくらい行きまくってるよな?」 断言しながら酔眼をこっちに向けたそのひとが、なにか飲み物を頼んでくれた。 いつの間にか自分たちのテーブルの隅に連れて来られていた秀を見て、左門さんが戸惑ったような驚いたような顔になる。 「古賀さん、彼はまだ未成ね・・・」 一呼吸おいて、制しようとする声を無視して、秀はハイっと渡されたグラスをぐいと空けていたのだった。 (あれから・・・。しばらくして・・・気分が悪くなって・・・。俺・・・?) 口も利かず早いピッチで飲み干した秀に、おおっと周囲が嬉し気にどよめいた。 「やっぱり若いっていいにゃぁ〜。おとなしくって可愛いお顔してるのに、豪快だね」 「それセクハラですよ、古賀さん。村上くんイヤな顔してるじゃないですか!」 「えっ・・、、そん、そんなことは」 焦る秀の小さな声は、男たちの笑い声にかき消されてしまう。左門さんがはらはらと自分を見ている視線を感じたが、 秀はそっちの方を見れなかった。見てしまったら、また左門さんにかばって貰うことになる。 「はい、もう一杯」 いつの間にかおかわりを手渡されていた。ジュースみたいな甘い味と周囲のノリにほだされて、 少しずつ緊張が溶けてゆく。ほんわりとした酔いが回りはじめているのを、秀は気づかなかった。 「い、いただきます」 ちょっと照れたようにはじめて皆に対して小さく笑い、秀はグラスに口をつけた。 (そうだ。記憶が残ってるのはだいたいそのくらいまでだっけ・・・) こうしてあらためて思い出してみると、それほど飲んだわけでもないが、 入学時にひとに誘われてどこかの新歓コンパに出て以来だった。 そのあとどうしたのだろう、恐々ながら今の状況が知りたくて必死に記憶をたどっていて、 ようやく切れ切れの映像が網膜のうえに甦った。死にたくなった。 秀をトイレに連れて行って吐かせたのは、左門さんだった。耳元で、「吐け。全部」と怒った声が言い、 喉から空気の出る音しか出なくなるまで、秀の頭を便器に押し付けていた大きな手の感触が首の後ろに残っている。 「もう少しで休めるから、がんばれ」 肩を引き上げられて腰の立たなくなった秀は強い腕に半ば身を預ける格好で、 「・・・だ、だいじょ・・ぶれす」 まったく上がらない瞼をそのままに、掠れた声しか出せなかった。 それから後の記憶は、バンとドアの閉じる音に加えてタクシーのシートの、また吐き気を誘うような独特の匂い。 固いような温いような何かに頭を寝かせられたこと・・・。 ここが自分のアパートではないことは、もう分かってきていた。 薄い壁ごしの隣のテレビの音がずっとぼそぼそと聞こえている部屋とは違う。 闇のなかで小さくエアコンの稼働を示す灯りが見える。ほとんど音もなく動くファンの気配が、 ときおりふんわりと温かい風を運んでくる。 深い水の底に沈んでいるような静けさ。水底の緩やかな水の揺らぎにも似た寝息が、 さっきから秀の聞いていた音だったのだ。 (・・・さ・・・左門さんの・・・) 秀は少しずつ慣れてきた暗がりのなかで、 不意に襲ってきたショックと寒気にぶるっと身を震わせ、思わず自分自身を抱き締めた。 大変なことをしてしまった。 調子にのって勧められるままに飲めもしない酒を口にして、そのうえでまた左門さんに助けて貰うことに・・・。 それも今度の場合はもっと酷い。自分でやらかした上にあろうことか、 潰れてしまったのを彼の部屋に連れ帰って貰ったのだ。 全部吐かされたおかげで、幸い体のほうはどうにか動きそうだ。頭は重いが痛いというほどでもない。 (このまま黙って出てったほうがいいのかな・・・) 目が覚めた時、左門さんがどんな顔をして自分を見るのかと想像しただけで、逃げ出したくなる。 きっとがっかりしてる。俺のことを買い被ってくれてたのに、信用をこれで失くしてしまった・・・。 せっかくお守りを貰ったのに。ツンと鼻をついてこみ上げてきた感傷を秀はグッと呑み込んだ。 (こっそり出て行って・・・、とりあえず後のことはまた考えよう) たまたま次の日がバイトの休みの日だったことを思い出すと、力が抜けそうなほどホッとした。 明日一日は猶予がある。言い訳なんか何も出来ないけど、少しでも時間稼ぎが出来ればそれがせめてもの慰めだった。 手探りでベッドの端に置いてあった自分のリュックを探り当て、 ひとり寝かされていたベッドのスプリングを軋らせないように、そろそろと起き上がったそのとき。 ヴ・・・・と、低い振動音がどこからか聞こえた。携帯電話の着信だった。 一瞬自分のかと思ったが、いま何時かは分からなくても、 こんな夜遅くに電話をかけてくるような相手は居ないとすぐ思い直した。 ということは、左門さん宛ての電話だ。マナーモードにしてあるそれは、ジャケットの中にでも入ったままになっているのか、 くぐもった振動音を繰り返すのみで、左門さんの寝息を途切れさせるほどの威力はない。 夜中にいくらなんでも、会社の同僚や友達がかけてくるわけがない。 (彼女・・・) 秀の頭にぽつんとその一言が光を灯すように閃いた。 その光は、秀自身がその可能性をずっと避けようとしていたことを示すように、すぐに消えていった。 分かってる。当然だ。こんなひとが誰とも付き合っていないはずがない。 独身だとパートのひとの噂話から聞いて、意外に思うと同時にあるはずもない希望のような明るさが胸に射した。 だけど、恋人は居るだろう、もちろん。 でも日ごろの左門さんから、そんな女性の影はちっとも見えない。彼の出身地である故郷に住んでいる、 昔からの友達で、それが遠距離恋愛にハッテンしたらしいよと、後になって噂で聞いた。 おばさんたちの情報網の凄さに恐れ入りながらも、 そういった事情を左門さん本人の知らないところで入手してしまった自分にも、ちょっとだけ後ろめたさを感じていた。 左門さんが遠恋しているなら、東京にはその彼女は居ない。こっそり彼を想っていたとしても、 彼女にそれを気づかれる可能性などほぼないはずだ。 左門さんへの恋心を諦めずに抱き続けていたのには、その安心感もどこかにあった。 初めからどうなる恋でもない。でも、左門さんが結婚するまでは、 彼と交わすなんでもない会話や目を合わせる機会に胸をときめかせたっていい。 この想いに酔っていても罪にはならないのだと。 かつて、おにいちゃんに見せて貰った蚕小屋の写真を思い出す。 丸いマッシュルームみたいな白いものがたくさん並んでいた。繭玉だよ、と教えて貰った。 蚕の幼虫はひたすらに与えられる草を食べてサナギになり、やがて自ら吐き出す白い糸によって繭玉を作る。 ぬくぬくとした世界のように思えて、秀は蚕はいいなと思った。 自分も繭のような城を築いて、そのなかで大事な想いに包まれていたい。どこにも行かず、何も見なくていい。 それがいつか形になって美しい絹糸にならなくても、きっといい。 けっこう長いこと、振動音は虚しく続いていたがやっとのことでフッと切れた。いかにも残念そうな空気が闇のなかに残った。 秀はリュックから手を放すと、滑るようにベッドから降りる。足の裏が生暖かい。 ホットカーペットらしい。すでに目が慣れて来て、ベッドからそう離れていないカーペットの床に、 左門さんが寝ている影がこんもりと黒く見えた。 秀の胸がドキンと一度高鳴り、それからドラムのビートのように激しい鼓動を打ち鳴らし始める。 こんな機会はもう二度と、一生ない。 好きなひとの部屋に二人っきりでいるなんて。そして相手はぐっすりと寝入っている。 「・・・・・・」 秀はそろそろと腰を下ろすと、膝で寝ている影ににじり寄って行った。 左門さんは仰向けになって気持ちよさそうに大の字になっている。 左門さんらしい、とドキドキしながらも思わず口の端に笑みが浮かぶ。 そっと横になると少しあいだを空けて、秀は左門さんの隣に寝そべってみた。 音は立てていないつもりだが、そのとき「う…ン」と彼が軽く呻いて、秀の側の手を自分の頭上にあげ投げ出した。 ギョッとして身を引くが、それからは何も起きない。 しばらく息を殺して様子を伺ったあとで、秀はもう少し身を寄せて、今度は左門さんの体にくっついてみた。 横向きの自分の胸や脇を通じて、深く隆起する逞しい横隔膜の感触をシャツ越しにも感じることが出来た。 (・・・左門さん) 目を閉じてジッと温もりを、ちょっと男臭い体臭を味わう。そのうちどうしても我慢できなくなり、 そっと手を挙げて胸の少し下に軽く手を置いてみた。 このひとの胸を、腕を、寝息を独り占めできるさっきの電話の主が羨ましい。 一体どんな風にその相手を抱くのだろうか。 きっととても優しいのだろう。初対面で秀にぶつかったことを慌てて詫びた時と同じで、 筋肉で重い体でのしかかって相手に負担をかけないように、ちゃんと気遣ってあげる気がする。 (・・・どうして・・・?) 息苦しさに開けた口元からかすかなため息が漏れた。 なんでこのひとと出会ってしまったんだろう。今さら、なんの未来もない恋と。 結婚するまでは想うのは勝手だと開き直っていた先から、そんなことをまた考えてしまう。 どんなに考えても仕方がないので、ふだんそこまで深く悩まないことにしている秀だった。 が、想う相手とこんなふうに添い寝しているという、普通ならば考えられない状況が秀の自問を深くし、 暗闇が気持ちを大胆にさせた。 置いた手でシャツの上をそっと撫でてみる。風が吹くようなやわらかさで。 寝息が一度乱れ、 上げていた腕をふいに戻した左門さんが、脇のあたりに当たった何かの物体に気づいたのはそのときだった。 分館topに戻る
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