Cocoon - 繭 - 3









 左門に、おにいちゃんの話はしていない。というか自分の育った環境も家庭のことも何一つ。聞かれても誤魔化してきた。 左門のほうでも、秀が話したがらないのを肌で感じたのか、あえて触れないようにしてくれた。
 正義感の強い彼のことだ。 おにいちゃんのしたことは、いまになって思えばほとんど犯罪行為として扱われてもおかしくなかった。 未成年者への性虐待だとか子供を性的対象にする倒錯者だとか、 今さらどこでどうしているかも分からない男を裁くすべもないことに憤慨し、せめて悪しざまに罵ることだろう。
 たしかに言われてみればその通りなのだが、秀はおにいちゃんの批判は聞きたくない。 どんなに歪んだ性癖の持ち主だったとしても、そしてその毒牙にかかってしまったのが、 自意識に目覚め愛情に飢えていた思春期の自分だったとしても。
 あの頃はおにいちゃんと共有する秘密の時間が、秀のすべてだった。愛されていると感じられる唯一の幸せなひとときだったのだ。

 おにいちゃんの部屋で、体のあちこちを手や唇で愛撫される。キスを覚えたのもその頃だ。 して貰ったことを今度はおにいちゃんにもしてあげる。
『上手になったね、秀』
 真っ赤な顔をしてペニスをしゃぶっている秀の髪を撫でながら、上ずった声でおにいちゃんが囁く。 気持ちいいのかな、と秀は閉じていた瞼をあげて、上目遣いでおにいちゃんの恍惚とした表情を確かめた。
『可愛いよ、秀。好きだよ。秀が好きだ』
 好きだと言われると、秀の胸の奥がジンと詰まるように熱くなり、心の空洞がおにいちゃんへの思いで埋まってゆく。
『俺も、おにいちゃんが好きだよ』

 おにいちゃんには、何度かお尻にペニスを入れられた。準備をいろいろしてくれたにも拘らず、 すごく痛くて秀はシーツに突っ伏して悲鳴を呑んで泣いてしまった。
 それでも、言葉だけでなくほんとに繋がったんだと思えば、辛いと分かっていても秀はそれでいいと思った。 その後おにいちゃんがそうしたがるときには、秀は悦んでそれを受け入れるようになったのだ。



 あの一件から一週間くらい、左門さんは倉庫に姿を見せなかった。
 ちゃんと謝れたから大丈夫だと自分に言い聞かせながらも、秀はバイトの間中、落ち着かなかった。 人の声や入ってくる物音がすると、ハッとして顔を上げる。違うひとだと分かってがっかりするが、 そんな風に左門さんを強く意識している自分の心の変化を、認めないわけにはいかなかった。
 しかしその分、秀の自覚のないところで、硬質な態度にもやわらかさが出て来たようだ。 あのとき怒って睨んでいた営業部のひとたちは、いまでは何もなかったように普通に秀に話しかけてくれる。 これも、若手だけど周囲からの信頼性の高い左門さんのおかげだろうか。
 ともあれ、秀はこの会社で働きだしてようやく、居心地の良さというものを感じるようになってきた。 主任はあいかわらずの態度だが、もう何があってもへこまないという気概が肚の底に湧いていた。  ここに居られるうちは、左門さんと時々でも顔を合わせる機会があるのだから。 それだけで自分は頑張れる。

「出張だったんだ」
 やっと顔を見せた左門さんは、秀の顔を見るなりそう言って笑った。 そんなに待っていたような顔をしていたんだろうかと内心恥ずかしくなったが、何も言わずにただ軽くうなづいた。
「それで、・・・大したものじゃないんだけど・・・」
 スーツのポケットを探って取り出した何かを、左門さんが秀の目の前に差し出した。
「・・・えっ?」
 目をぱちぱちさせて秀が珍しく素っ頓狂な声を上げる。左門さんが照れくさそうに笑って制した。
「いや、そんなに驚くなよ。行った先のいわゆるご当地キャラってやつのキーホルダーが売ってたから、ほんの冗談で」
 あんまり冗談とか言いそうにない左門さんが、秀に気を遣わせまいとそう云ってくれているのが伝わった。 秀は無言のままそれに視線を落とすと、おずおずと手を伸ばして受け取った。手のなかでチリ…と小さな鈴の音がした。
「はっきり言ってぜんぜん可愛くも有名でもないから、付けるというよりかお守りみたいなもんかな」
その言葉に秀は左門さんの目を見上げた。
「おまもり・・・ですか?」
「そう。なんか一つ、持ってて欲しくてコレ買った」
 急に棒読みみたいな言い方をした左門さんは、秀が何かを言う前に、
「それじゃ」
とそそくさと踵を返してアッと言う間に居なくなってしまった。 残された秀はぽかんとしてその場に突っ立っていた。
 出張から戻って、仕事の用じゃなくてわざわざ来てくれたということだろうか。 小さなキーホルダーひとつをただのアルバイトでしかない秀に渡すために。
 いつの間にか握りしめていた掌を開いて、それをジッと見つめる。ご当地特産の野菜と歴史上の人物を掛け合わせたらしい、 貰っておいて悪いがほんとに全くパッとしない、間の抜けた感じのキャラクターだった。
(これじゃご当地キャラのランキング入りなんて到底無理そうだ・・・)
 胸のなかで呟いたあと、秀は思わずクスッと笑ってそれをポケットの一番奥に大事にしまった。 さっきまでのどこかどんよりした気持ちが嘘のように晴れ、てきぱきと仕事の続きに取り掛かる。 このお守りがあればどこに居ても左門さんと一緒だと思い、足元から沸き立つようなときめきを噛みしめながら。


 その年の暮れ。バイトを始めて最初の十一月の終わりごろ、 早めの全体の忘年会をするので、秀もパートのおばさんたちと一緒に参加するよう誘われた。
 学校でもせいぜい1人、2人のそこそこ親しくなった男の学生と、たまに牛丼屋などに行く程度のつき合いしかしていなかった。 お前が来るとぜったいモテるはず、とあまり良く知りもしない学生からしつこく合コンに誘われるときもあったが、 誘われても時間がなかったり、 秀自身が見知らぬ同年代の男女といきなり会って話をするという状況に、どうしても気が進まずに避けていた。
 そのうち「あいつは暗い」とか「ひょっとしてゲイじゃないか」などと勝手な憶測の噂を立てられ、 それは秀の耳にも少しは入ってきた。腹は立たなかった。むしろ適当にそう思ってくれていた方が、 いまの自分には都合がいい。
 秀は恋をしていた。他の誰にも、この静かな幸せを邪魔されたくなかったのだ。 会社の忘年会も本来なら何か理由をつけて断るはずが、左門さんも出席するというのを聞いて「行きます」と答えていたのだった。




分館topに戻る