Cocoon - 繭 - 2









 いつになく始業時間より三十分近くも早く、秀は会社に着いていた。出来れば他のひとにあまり見られないうちに、 あの人を探して謝っておきたい。バイト中にずっとそわそわと落ち着かない気持ちでいるのはイヤだった。
「!」
 思う先から秀の必死の願いが空に通じたかのように、 ホントに左門さんが向こうの角を曲がってやって来るのに出くわした。手にした書類に目を落としたまま歩いてくる。 秀の胸がギューッと極限まで縮み上がり、頭のなかが真っ赤に染まる。
「あっっ、あ、・・・あのっ」
 飛び出すように脇から声を掛けた秀に驚いて左門さんが振り返る。相手がリアクションする前に秀は頭を下げていた。
「す、、すっ、すみませんでしたきのう・・・!あ、違った、先に、おっ・・・おはようございますっっ」
「・・・おはよう」
 ポカンとした声を後頭部あたりで聞きながら、カアッと体中を熱くした秀はもう一度やぶれかぶれで繰り返した。
「すみません・・・昨日はすみませんでした。・・・あのっ・・お、俺は怒ったんじゃなくてその」
「村上くん?」
「さ、左門さんがかばってくれたこと、ホントは嬉しかったんです・・・! で、でもとっさに恥かしくって・・・それで」
「・・・・・何が恥ずかしかったんだよ?」
 気を悪くも笑っているのでもない、ごく普通どおりの声音に恐る恐る顔を上げてみれば、 なぜか仕方なさそうに笑っている左門さんの顔があった。
「・・・?」
「村上くん、あのさ。そんな身構えなくたっていいんだよ」
「み、身構えるなんて俺、そんな・・・」
 自分の隠れた臆病な心を言い当てられた気がして、ずきりと痛みを感じた秀が思わず口ごもると、
「ごめんな。オレのほうが君にこうやってズバズバ気になるようなことを言うからいけないんだよな」
頭を掻いた左門さんは、秀が何か言う前に続けた。
「君がここで働き出して何か月か見て来たけど。主任が言うようないい加減な仕事してると思ったことは一度もなかった。 だからオレは疑問に思ったことを言ったまでだし、自分が納得したいから動いただけだ。君が謝ることは何もないよ」
 ある会社に期限付きで用意するはずの製品の在庫が、直前になって数がそろわないことが判明し、 その責任を主任が秀に任せた棚卸しのチェックリストによって、数があると誤認していたと報告したのだった。 秀はたしかにその分厚いリストを渡されて、うんざりしながらも細かなものまで箱を開けて一つ一つ調べてチェックしていった。 手分けしていたパートの女性が先月辞めてしまったがために、ぶつくさ言いながら主任が秀と手分けして作業をしたのだが、 足りないと指摘された幾つかのパーツはすべて、主任が担当した場所に保管してあるものだった。
 秀はすぐにそれと気が付いたが、狡猾な主任は先回りして結果だけを上に報告していた。 分担したが、バイト生に任せたところからミスチェックが出た、と。 時間内に終わらせるように言ったらその分手抜きしたらしく、箱の中身と記入の個数が合っていなかった。
 自分のミスを秀のせいにすり替えてしまったのだった。大変なことをしてくれたな、と主任に凄まれ、 何のことか分からないままに営業部に主任に附いて向かった。待ち構えていた関係者はもちろん激怒していた。
 秀には言い分がありながら、それを訴え出る機会すら与えられなかった。 仮に誰かに訴えたとして、日ごろ外ヅラだけは良い主任と、 倉庫にやって来る社員たちにもろくな挨拶もしていなかった自分と。 どちらの言い分を信じるかは試す前から答えは出ている。だから秀は口を噤んでいた。
 こんな他愛ない手口でやってもいない事を自分のせいにされ、 大人の恥ずかしげもない汚さに心は深く傷つけられていた。 唇の内側で歯を食い縛り、目では思い切り主任を横目で睨み付けていたが。主任は知らぬふりで気の毒そうな顔をしてみせた。 いまさら秀には何も出来ないことが分かっているのだ。
 辞めたい。辞めたくはないが、もうこんなヤツの下で働くなんてごめんだ。 いや、もしかすると会社からクビを言い渡されるのが先なんだろうか・・・。 怒っている関係者を前にして謝罪の言葉がどうしても出て来ず、 足元から沈んでゆくようにぐるぐるとネガティブな思考が渦巻くさなか。 その場で唯一黙って冷静に秀の様子を見ていた左門さんが、口を挟んだのだった。

「・・・左門さん。俺・・・」
「ん?」
 早く会社に着いておいてホントに良かった。 初めて誰かと、まともな会話を出来ているこの状況に驚きと安堵を覚えながら、 秀はやっと自分の口から告白していた。
「バイトは辞めさせられても仕方ないって思ってました。でも、・・・でも俺、ホントにやってないって、 さ、左門さんだけには知って欲しくって・・・」
「・・・・・」
「そ、それと」
「・・・それと?」
 優しい声に思わず涙腺がグッと緩みかけて、慌てて引き締めながら秀は上目遣いに左門さんを見上げて言った。
「え・・・と。さっき恥ずかしいって言ったのは、誰かにあんな風にかばって貰ったのがはじめてだったから、 ちょっと驚いて、どうしていいか分からなくってそれで・・・」
 左門さんがのらりくらりとかわす主任に真っ向から不快感を示すと、 村上君個人の言い分も聞くべきだと主張した。そして付け加えた。 自分はいままでの仕事ぶりを見てきて、村上君がそれほどいい加減な仕事をする人とは思えない、と。
 一介のバイト生を堂々と庇われて、そのとき秀は左門さんの言葉にあっけに取られると同時に、 周囲からの視線を一身に集めたことに、身の置き場のないような羞恥と焦りを覚えた。 それでつい、反射的に左門さんをキッと顧みると、「やめてください」とほとんど吐き出すように口走ってしまったのだ。
 たしかに左門さんは他の人よりも多く、倉庫に顔を出していた。 昔の記憶とすり合わせて、会える機会をひそかな愉しみにしていた秀だ。 頼りになるよと言っていつも秀に直接製品のことを尋ねてくれるのが嬉しくて、 彼のためにもしっかりと在庫の位置を把握しておこうと、バイトなのにそんな目標を持つほどに。
 だけどそんな自分の努力など、主任のような責任逃れの卑怯者の舌先三寸ひとつで一蹴されてしまう。 これだから学生バイトは、と自分をいかにも責めるように睨んでいた左門さん以外の社員の視線にも、傷ついていた。 左門さんひとりが異議を唱えてくれたところで、自分たち二人のあいだにしか分からないことを、 どうやって他人に信じさせられるだろう。
 せっかくの弁明のチャンスも自ら放棄してしまい黙って下を向いてしまった秀をそのままに、 それでも左門さんは引き下がらなかった。 またこいつかと胡散臭い目つきでねめつける主任に向き直ると、落ち着いた声で訊ねる。
 得意先との取引に穴を開けたことの直接的な謝罪と対応は、営業である自分たちが矢面に立つとはいえ、 こうした不祥事をバイトのミスのせいにして終わらせることは、無責任というより他にない。 バイト任せにせず、最終的には自分の目で見てすべてを把握しておくのが、 そもそも現場管理を預かる者の最低ラインの責務じゃないんですか。
 虚偽の報告を疑われ、年下からこれまでの管理のいい加減さを指摘された主任は、 逆ギレして左門さんに詰め寄り、胸倉をつかみかけて一時不穏な状況となったのだった。
 周囲が仲裁に入って双方を落ち着かせたものの、 結果としては主任自身の行動がかえって社員たちの不興を買ったようだ。 取引先への対応を話し始めたその場で、結局秀は誰からも詰問されることはなかった。
 一方、主任は仕事の不手際の叱責をあらためて強く受けたと見え、次の日思い切り意気消沈していると思ったら、 それからは秀や新しく入って来たパートタイマ―たちに対しても、 横暴な言動がしばらくの間は沈静化していた。
「・・・バイトを辞めさせられずに済んだし、ぜんぶ左門さんのおかげです」
 やっとのことで気持ちが落ち着いて、お礼が言えた。
「大げさだな。そんなことでバイトを辞めさせるほどクズな会社じゃないさ」
 左門さんが笑って秀の肩にポンと手を置いた。ドキッとした。重い掌だった。 秀は左門さんを見つめて何度かまばたきした。
「すみません・・・」
 何を言えばいいのか、もうこれ以上は分からずに小声で云うと、左門さんが眩しいような表情になり、 そのあと秀の視線を外して下を向いた。
「謝らないでくれ。いつも君に・・・そんな目で見られてると、オレはまた構いたくなるから」
「・・・!」
 左門さんはトーンを落とした声で呟くと、ギュッと一度秀の肩を掴んで手を放し、 そのまま顔もあげずに脇をすり抜けて行ってしまった。




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