Cocoon - 繭 - 1









 明日、会社で顔を見たらまず、謝ろうと思っていた。 素直じゃない態度は、自分でも嫌になるくらいよく知っている。
 必要なこと以外にほとんど話はしないし、顔なじみになっても自分から進んで声を出してまで挨拶もしない。 不機嫌なわけでも、面倒だと思っているわけでもない。 ただ、反射的に周囲に対して身構えて壁を作ってしまう。まるで自分が透明人間になったように、 誰に対しても振る舞ってしまう。
 不愛想なよりは誰にでもそこそこにこやかに振る舞っていたほうが、世渡りには良いことは分かる。 生まれたときから孤児で自分自身がどこから来た何者なのか分からないことが、 長ずるに従って根深い劣等感として、行動思考の総てによくない影響を与えているようだ。 それに気づいたときには悲しかった。
 他人に理解されようという努力をしないこと。むしろ他人から距離を置き自分を遮断するほうを選ぶこと。 自分が一番苦手として避けて来たことが、 社会に出てからの自分自身の処遇にも実害を及ぼす場合もあることも、今回のトラブルで思い知らされた。
 謝りたい。自分を疑わず、それどころか真っ先にかばおうとしてくれたあの人に。 今ならこんな俺も素直になれるチャンスだと思う。 でもうまく伝わるだろうか。やめてくださいと、あの時とっさに突っぱねてしまった。 迷惑なわけじゃなかったと、ただ恥ずかしくて思わず意地を張ってしまっただけだと、 あの人に誤解を与えず謝罪が出来るだろうか。
 誰かに期待をせずにいようと思えば、まずは相手にも踏み込んで関わろうとする隙を与えないことだと、 これまでの短い人生のなかで秀はそう信じて生きてきたのだった。
 これ以上、心の傷を深くしない為に。



 高校時代、アルバイトの掛け持ちでこつこつと貯め続けて来た金で、念願の映像を学ぶ学校に入学した。 19歳になった最初の春、従業員という形で卒業後も居座り続けてきた児童養護施設を出て、 昭和時代の遺物のような最古のアパートに転出した。
 火事が起きればあっという間に燃え落ちそうなモルタル二階建てアパートの角部屋。 周囲の建て替えられたビルに挟まれて日当たりは良好と言えず、 畳の六畳一間に小さな流しと一間分の押し入れのみ。 トイレは辛うじてついているが風呂はなく、近くの銭湯を利用するしかない。 それでも生まれて初めて自分だけの居場所が持てたことは、秀にとって小さな城の主になったような達成感を抱かせた。
 が、新生活は始まってみれば、 達成感よりもささやかなこの暮らしを続けてゆくだけでも大変だという現実を突き付けてきた。 切り詰めていても、学校で必要なものを買ったりしていれば、予想外の出費もかさむ。 先々これでやっていけるのかと早々に不安を覚えた秀は、 学校よりも生活費の捻出のためのバイト先を探すことを優先せざるを得なかった。
 なんとか見つけて潜り込んだのは、医療機器メーカーの下請け企業だった。 接客やサービス業はまるで向いておらず、高校時代もひととなるべく喋らずに済む黙々と出来るような仕事を探してきた。 今回も倉庫での製品管理や注文に応じての品出しだという業務内容に、 人見知りで気安い会話の苦手な秀は安心していたのだ。
 いざ働き出してみると、倉庫とはいっても社屋ビル内のフロアで、 会社の営業部の人間たちもしょっちゅう出入りする現場だった。それでも秀は大して心配はしていなかった。 面接のときに会った主任だという三十代後半と思しき男の云われるがままに、 製品を探して梱包すれば、彼が社員に引き渡すのだろうと思っていたからだ。
 しかし主任ははっきり言って横柄で横着な人物だった。 自分は命令を下すばかりで、ほとんど動こうとしない。他のフロアに電話一本で製品をまとめて届けなければならない場合にも、 実際に行かされるのは秀の仕事だと、よく分かりもしない最初っから割り当てられてしまったのだ。 三十代ですでに出世コースとは外れた製品管理に回されたことをかなり不満に思い、人事を根に持っていて、 その鬱屈を入ってききたアルバイトやパートの人間にぶつけている。
 分かりやすいが、直属の配下で働くにはつくづくうんざりさせられるタイプの人間だ。 同じくバイトに来ている主婦などは、主任がタバコ休憩でたびたび席を外すたび陰口を叩いている。 秀は黙って聞き流していた。
 バイト代は悪くなかったし、今までしてきた屋外での力仕事よりもずっと肉体的には楽だった。 疲れ切って学校の勉強が出来ないようならば本末転倒だ。 怠け者で厭味な主任に顎で使われる程度、なんら気にすることでもない。


 そんなことよりも、秀にはただ1人だけ、会社でつい気になってしまう人物が出来てしまっていた。
営業部の20代半ばの男性、左門さん。
 初めて苗字を聞いたときには、何だか時代劇にでも出て来そうな名前だと思ったのを記憶している。 のちのち左門と付き合うようになったとき、ふと思い出して秀がそのことを言うと、 元々の先祖が東北の方の武士だったらしいとどこか誇らしげに左門は教えてくれた。
 たしかに、左門には昔の侍のような折り目正しく律儀で、それでいて自分の信念をしっかり貫き通すタイプのような雰囲気がある。 見た目も大学生柔道で入賞したというだけあって、 引き締まっているががっしりとした体躯は、 太い首にネクタイをきっちり締めただけでも、なにか頼りがいのあるビジネスマンに見せていた。
 じっさい、左門は仕事のデキる男らしい。ただしその分、他人の無責任な仕事ぶりを見つけたときには、 相手が誰であろうとその非を指摘して改善するよう求めるという、なかなか手厳しいところもあった。 融通が利かない、と主任などは陰で呼び捨てにして悪く言っていたが、 それはあんたがホントに無責任だからだろ、と秀は内心で言い返していた。

左門さんは、おにいちゃんに似ている。

 倉庫に在庫の確認でやって来たところを、狭い通路で出会い頭にぶつかりそうになり咄嗟に秀の腕を掴んで支えた、 そのとき初めて遭い間近で見た左門さんに、秀は瞬間そんなことを閃いたのだ。
「あっっっ!ごめんね、オレが突き飛ばした」
 慌てて謝る社員に、秀のほうが恐縮した。
「あ、いえ、俺が陰にいたから・・・」
「オレが普通にぶつかっただけでも、そんな細かったら跳ね飛ばられるよな」
 身長差はそれほどなくても、体の分厚さはまるで二人は違っている。その言葉に思わず秀がちょっとだけ笑うと、
「君、初めて会うね。新しいバイトの方?」
左門さんが気を好くしたのか、気さくに訊いてきた。
「あ、はい、おとといからです」
つられて秀も日ごろの無愛想も忘れて応える。
「そう。じゃ、これからよろしくお願いします。オレは畷左門です。あ、名字覚えにくいから左門でいいよ」
 学生だと一目瞭然だろう相手に対しても丁寧で気さくな対応をしてくれたその人に、警戒していた気持ちがスッと緩んだ。
「あ・・・、よ、よろしくお願いします。俺、じゃない、僕・・・村上といいます」
左門さんは面白そうに笑った。
「普通に話していいよ。うちの会社はパートのおばちゃんも社員を君付けで呼ぶしね」
「・・・ハイ」
「あ、それで早速なんだけど、村上くん。探して貰いたい製品があるんだ・・・」
 ここに来た用件を思い出したとたん、すぐに引き締まった男くさい表情に秀は少しドキッとした。 返事を忘れて瞬きをする秀の顔を見て、左門さんがようやく気が付いたように、 ごめんと秀の腕を掴んでいた手を放した。

おにいちゃんかと思った。

 その出会いは、秀の心を施設に居た頃のまだ中学生だった時代に引き戻した。 おにいちゃんは、当時施設で働いていた。秀が心を開いた数少ない人間のひとりだ。
 高卒で自衛隊に入ったけど辞めて、外国をあっちこっち放浪してたんだってよ、 と食堂のオバサンたちが声高に話しているのを聞いたことがある。 二十歳をひとつふたつ超えたばかりらしいが、 それでも秀からすれば、おにいちゃんはやはり年上のお兄さんに見えた。
 おにいちゃんはやって来たときから、子供たちには人気があった。 特別に陽気でにぎやかというタイプではなかったが、 小さな子供たちが少しでも自分のほうに気を向けさせようと下らない騒動を起こしかけるのにも、 怒ることなくいちいち気長に応じてやっていたのが、信頼を深めたようだ。
 自衛隊で厳しく鍛えられたというおにいちゃんは、 どんな仕事をするときにも立ち居振る舞いがきっちりして素早かったが、 ふだんの物腰はいつも柔らかい。すっと伸びた背筋がいつも美しく、実際よりも背が高く見えた。 明るさよりもむしろどこか悲し気な表情をしていたが、 笑ったときは爽やかで、短い髪がやや上がり気味の眉と通った鼻筋をより清々しく精悍に見せていた。
 施設で赤ん坊のときから育ち、おそらく在住者としては一番長く居る秀は、 子供たちの世話を手の足りない先生たちに交じって手伝わされることも多い。 おにいちゃんは先生と呼ぶには、ベテランの先生たちに比べて威厳というものが足りないなと、内心秀も思う。 だから、他の年少の子どもたちが呼ぶように自分も「おにいちゃん」で通すことにしたのだった。

 ある日曜日の午後、ふたりきりで作業していた洗濯室で、 冗談を言ったおにいちゃんが秀の体を服の上からじゃれつくように触ってきたとき、 人気者のおにいちゃんに特別扱いされたのが嬉しくて、自分もおにいちゃんの体をくすぐり返してやった。
 おにいちゃんはすぐさまもっと荒々しいやり方で反撃し、秀もまた仕返しした。 学校でも親しい友人という者がおらず、学校が終わればそそくさと人目を避けるように施設に帰ってくる秀にとって、 おにいちゃんは一番年の近い気の置けない存在になっていた。 学校で周囲の生徒たちがやっている、互いの親愛を示すかのようなスキンシップを自分も出来たことに、 秀のなかでわくわくするような喜びが弾けていた。
 笑いながらやったりやられたりを繰り返すうちに、気が付けばおにいちゃんが秀を横抱きにして床に倒れ込んでいた。 はぁはぁと全身で息をつく秀のTシャツがずり上がり、笑い過ぎて激しく隆起する細い脇腹と臍が覗いていた。 おにいちゃんは急に動きを止めてしまった。 不思議に思って見上げた秀の見ている前で、黙ったままその剥き出しの肌の部分に掌を置いた。
 熱い掌だった。笑おうとしたけれど、なぜか秀はこの沈黙に息詰まるような緊張を覚え固まったままでいた。
『かわいいね、秀。秀が好きだよ』

 やがてぽつりとおにいちゃんが言って、身を起こした。離れてゆく掌が一瞬お腹を撫でるようにした。 思春期になりときおり隠れて自慰のようなことも始めていた秀にとって、 それは未熟な官能を揺さぶられる最初の体験だった。





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