花 に 嵐









 風がどこからか花を散らして吹いている。 切れた雲間から覗いた弓張り月の下、ふと一瞬目を離した隙に秀は男の背を見失う。
 ハッとして左右に目を配るが、そこらに居るわけがない。 旅姿の黒い長外套を着た勇次と、後を追ってきた秀との距離は、ざっと一町あまりは開いていた。
 気づかれずひっそり見送りたかっただけだ。茶屋で会った二日前の夜にあばよと先に背を向けておいて、 黙って後をつけたのは自分の勝手だ。 だからそのまま引き返しても良かった。 それでも、戸惑いながら秀の草履の足は止まらない。どころかほんの少し大股の急ぎ足になった。
 日本橋から町をいくつも抜けて、人家の途絶えたこの村はずれまで来る頃には、 夕日は遠くの山の端に隠れた。 街道は荒れ野と田畑が広がる寂しい景色のなかに入ってゆく。 風の舞う春の道を、一度として振り返ることなく黙々と前に進むだけの孤独な後姿を見つめていたら、 いつしか引き返すことを忘れていた。
 何となく明るくなった気がして我に返ると、右手に一面の菜の花畑がボウと浮かび上がっていた。 それにちょっと目を留めて視線を元に戻したら、男の姿は消えていたのだ。
 一本道だから夜でも見失うはずがない。そう思っていたからつい動揺した。 茂みに用足しにでも入ったのか。 いつもの癖でひたひたと足音は立てずに、周囲に目を配りつつ足を速めた。
 結局、広い菜の花畑の横も通り過ぎてしまい、根元に小さな祠のある桜の大木のところまで来てしまう。 櫻弁天と呼び慣らされているそこは、秀自身、旅の行き帰りで何度も行き過ぎる見覚えのある場所だ。 が、いつもと違うように見えるのは暗いせいではない。今夜は季節柄、花が咲いているからだろう。
 聞くところによると、この桜の下には女の死骸が埋まっているとか。 不気味なほどに立派に咲き誇る花を見て、ふとそんな旅人の噂話を思い出した。
 その昔、江戸詰めの某藩の若侍と道ならぬ恋に落ちたある花魁が、主命によって帰郷する際、 別れがたくここまで密かに見送りに来たという。 三年のあいだ互いに辛抱すれば必ず迎えに参ると約した恋人の言葉を信じて、 花魁は別れた春の日になると毎年ここに来て待っていた。
 だが待ちに待った約束の三年目、やって来たのは別の使いの者。 渡されたのは、若侍が藩内で起きた謀反の一味として囚われの身になってしまったとの便りだった。 この文をそなたが読む頃にはもはやこの世の者ではない、との一文に目を通した直後、 花魁はその場で隠し持っていた剃刀を躊躇なく白い喉に押し当て、自ら掻ききったという―――――
 自害して果てた女を哀れに思った使いの者が、 遺体をまだ細い桜の若木の根元に埋め小さな祠を安置したのが、この櫻弁天の由来だ。 もっとも悲恋を貫いた花魁の純情には同情しても、 ここで別れると二度と会えなくなるという迷信がいつのまにやら旅人のあいだに流布してしまい、 縁起が悪いといまでは立ち止まる者もほとんどいなくなってしまった。
 秀は不吉な胸騒ぎを抱いて、ひとりその場に途方に暮れて立ち尽くしていた。 人の往来の途絶えた夜になっても、誰にも見られず桜は薄闇のなかで凛として咲きほこり、 時おり強く吹く夜風に、淡い雪にも似た花びらを付けた枝ごと揺らして立っている。 根元に埋まった死骸を養分にして成長した挙句、 女の情念までもその花弁一枚にまで普く行き渡らせているかのように。
(・・・)
 幻の景色にも見える満開の花の下でしばし放心していると、 いま自分がここでこうして男の姿を探していることすら、夢のなかの現実みたいに思える。 出会わなければ良かったと、死んだ女もそんな悔恨を胸に過ぎらせることはあっただろうか。


 諦めて踵を返しかけたとき。ふいに後ろから肩を叩かれ秀は飛び上がった。
「―――!?」
 声を出すことも出来ないほど驚いていたのだが、 背後に顔を覗かせた男は肩透かしを喰ったような声で云った。
「なんでぇ。せっかく遠回りして脅かしてやったのに」
「っ・・・。バカかおめぇ!そんな道草喰ってる場合かよっっ」
 そのまま肩を引き寄せられ、花の下で向かい合う。 我を忘れて喰ってかかった直後、すぐ目の前の薄ぼんやりとした相手の貌に堪えきれず白い歯がこぼれるのを見て、 秀は顔に血が上るのを感じた。いつから気づかれていたんだろう。
「送ってくれるつもりなら、なんで最初から途中まで一緒に行くと言わねぇ?」
 もやもやした熱が回る顔が、暗すぎて勇次にもよく見えていないことがありがたい。 秀はそれでも視線を合わせられずに横を向いた。
「・・・。いいだろ、別に。俺が勝手に・・・したことだ」
 それ以上は言葉が出てこなかった。こうして肩に置かれたままの手を通して伝わる重さと熱とが、 本当にこれから離れてしまうのが、秀には想像出来なかった。勇次には勇次のやむにやまれぬ事情のために、 いっときの間、江戸を離れるだけだと分かっていても。
「・・・そうか。だが、キリがねぇ。ここまででいい」
 風の中で勇次の艶のある低い声がそう言って沈黙した。 そのいっときがどのくらいの時間を指すのか、誰も教えてはくれない。 勇次本人にも見通せないこれから先のことが、秀に分かるはずがない。 それどころか、生きて再び逢えるのかどうかさえ。
「――――分かった」
「・・・」
 黙ったままの男に手を伸ばすと、秀は外套の胸元をグッと強く掴んだ。
「じゃあな」
「待てよ。オレにも抱かせてくれ」
 実際に涙など出なくとも、張り裂けそうな胸のはしばしから血の涙が噴き出ていた。秀は早いところ勇次から離れようと思う。 が、勇次はそんな秀の背に両腕を回すと広い胸に迷いもなく抱き取った。 二日前に体に残った温もりと匂いが、もう一度秀を包み込む。思わず目を閉じそうになったとき、 勇次が顎に指をかけて持ち上げようとするのに気づいた。
「・・・ダメだ、勇次。ここはいけねぇ」
 咄嗟に顔を背けて言ったのは、もちろん人目を憚ったわけではなかった。 いまになって急にあの不吉な迷信を思い出したのだ。 ここで別れると、その者たちは二度と会えないという・・・。
「秀?」
「・・・櫻弁天の話、聞いたことねぇか・・・?」
 見送りはここまででいいと勇次が言ったからには、秀にはそうするより他にない。 しかしこの不幸なまま自ら命を絶った女の埋まる桜の膝元で、別れ際に唇など重ねようものなら、 それこそ二度と勇次と相まみえることが出来ない気がする。
 真剣にそんなことまでも口走ってしまった自分を、秀は嫌悪した。 これまでどんな俗説や迷信なども信じたことなく、縁起をかつぐ輩はすべて小ばかにして鼻で嗤いとばして来たくせに。 他人の血で手を汚してきた自分が、いまさら普通の人生を送れるはずがない。 思い通りにならないのは当然と諦め受け入れているつもりでも、 やっぱりこの一縷の望みに手を伸ばさずにはいられないのだ。
 勇次はだが、声に出さず静かに笑った。
「櫻弁天の迷信ならオレも知ってるさ。・・・でもな秀、オレたちになら、それはいい話だと思わねぇか?」
黒目がちの大きな瞳を瞠る秀のやるせなさを見抜くように、優しく抱いて続ける。
「その二人はここで一体(ひとつ)になることが出来たんだからな」
「――――・・・」
 暗いなかにもそこだけ青い光を集めたような切れ長の目を、秀は息を詰めて見つめた。 二人の頭上ではドウ、とまた強い風が吹いて、散った花が足元を舞う。
「勇次。俺だっておめぇを失ったら、いつでも平気で死んでゆける」
 それは秀の本心からの言葉だった。その呟きを聞くなり勇次は頷いて唇を塞いだ。 淡い月あかりが春の嵐のなかで一つに重なる影を照らしていた。 やがて秀の頬を甲あてをした両手が挟み、囁いた。
「死ぬかよ。死んでたまるか。おめぇをまた抱くまではきっと、な」
「・・・ああ。俺も死なずに待ってる。だからちゃんと帰って来て、抱いてくれ」
 恥ずかしかったが、最後は泣き笑いで勇次の顔が見えなくなった。






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