雪中相合傘









 綿入れ半纏の内側で両腕を組み手ぬぐいを巻いた首を縮めながら、夜泣き蕎麦の灯りに駆け寄った。
「うー。寒ぃ」
 この冬すっかり馴染みとなった客に、こっちに背を向けて器を洗っていたほっかむりの老人が振り返る。
「今夜は早いね」
 薄く積もった雪の中で足踏みする蓬髪頭の男を見上げて、欠けた前歯を見せた。 その笑顔も急な冷え込みのせいでこわばっている。
 年の瀬もついに押し迫った。明日は大晦日だ。このひと月あまり、秀は幾つかの店に納める細工物にかかりきりだった。 飯の支度も面倒で打ち込んでいたから、蕎麦屋の声を聞いて飛び出すようになっていた。
 今日は最後の納品を無事終えたが、夕方家に帰るなり力尽きて寝床に倒れ込みそのまま爆睡してしまった。 屋台の風鈴の音で目が覚めると、条件反射のように昼前に湯づけを食ったきりの腹の虫が騒ぎ出し、寒さを忍て出て来たのだ。
 程なく差し出されたどんぶりの熱を、冷えた両手で囲い暖を取る。立ち昇る醤油の匂いに待ちきれず、空きっ腹が音を立て急かした。
「また降ってきたな。明日もまだ頑張るのかい?」
「いやぁ。今年はもう仕舞にしようかと思ってねぇ。今日は思ったより売れたことだし」
「良かったじゃねぇか」
 自分も仕事を終えて気分のいい秀が、相槌を打って勢いよく蕎麦を啜り込んだところだった。 綿入れの背中にひっきりなしに吹きつけていた風が、ふっと止んだ気がした。
「?」
 器に口をつけたまま目だけで振り返る。思わずつゆを吹き出しそうになった。 さっき目覚めたとき、寝床の中でちょっとだけ思い浮かべた奴の顏がそこにあったからだ。
「なっ・・・なんだよおめぇ・・・!?」
 背後に身を寄せるようにして風よけになった男が、肩口に傘を覗かせたままニッと笑いかける。
「ごあいさつだな。オレも蕎麦だよ」
「いらっしゃい。おや、あんたら知り合いかい?こんな夜に奇遇だね」
 初めてみる顔を見上げて老人が言う。 常連客の憮然とした顔を尻目に、役者絵から抜け出て来たような男が愛想よく頷いて、雪駄の足元に傘と手荷物らしき小ぶりな木桶を置いた。 雪の中でしゃがんで啜っていた先客が入れ違いに去ってゆき、湯気の前に肩を並べる客は二人だけになった。
「久しぶりだな、秀」
 白い息を吐きながらの勇次の低い呼びかけには答えず、俯いて蕎麦を掻きまわしながらぶっきらぼうに口を利く。
「・・・。驚かしやがって。まだ得意先回りか?この雪ン中ご苦労なこった」
「まさか」
「だったら遊びの帰りか。にしちゃ、早すぎだな」
 答えも待たずに矢継ぎ早に言葉を継ぐのは、思わぬところで会ったがゆえの照れ隠しもある。 今年最後の裏の仕事の後、いつもの密会場所で性急に身を繋げて以来、会うこともなくいたのだった。
「これから行くところだったのさ」
 微妙に皮肉を交えた冷やかしにも、勇次はてらいなく答えた。 動揺を隠そうとしていた秀の胸の奥で、ジリッと何かが小さくはぜる。 そのうっとおしい火種を熱いつゆで急いで飲み下すと、何でもないふうに突き放した。
「だったらこんなとこで油売ってねぇでさっさと行けよ」
「そう言ってもな。家主が居ねぇのに待ってても仕方ねぇ」
「あ?」
「留守だったんだよ。せっかく"極上の"下り酒を飲ませてやろうと思ったのに・・・」
 もったいぶって付け加えるまでもなく、雪の上に置かれた取っ手付きの細長い木桶は、いつもの量り売りのよりはるかに上物そうだ。 てっきり馴染みの敵娼(おんな)の待つ見世にでも行く途中かと思ったが、 目指すは年の瀬を新酒を酌み交わししっぽり過ごすつもりでいた、どこぞの素人(?)の宅だったらしい。
 箸の先を咥えた秀の口元ににんまりと浮かんだイジワルそうな笑みが、横顔を眺める勇次の目に留まる。
「へぇー。良い酒まで用意していそいそ訪ねてったのにフラれちまったってか。色男も形無しだな!そりゃまあご愁傷様ってことで」
 年上らしい、それも粋な遊び人風の男相手にぽんぽん遠慮なしの言葉をぶつけているのを聞いて、 身を起こした老人がちらと上目遣いに長身の二人の顔を見比べる。 いつ来ても言葉少なで、半分別のところに心を置いてきたような表情で黙々と蕎麦を啜っていた職人が、 今夜みたいに自分から話しかけてくることも珍しかったが、 後からやって来た男に辛辣ながらまんざら邪険にもしないところを見ると、よほど気の置けない間柄のようだ。
「おまちどお。兄さん、あったまりなせぇ」
「ありがとよ。ふぅん、柚子の皮とは乙だね」
「湯気もご馳走だからねぇ」
 男は微笑んでどんぶりを受け取った。 黒い手ぬぐいでほっかむりをしているのは老人と同じだが、こっちは蒼ざめた美貌がむしろ引き立っている。 降りしきる雪のなか訪ねて行って無駄足を踏んだ上、年下の友人からはフラれたことをからかわれたにしては、何故か機嫌が良さそうだ。 湯気を吸いこみつつ箸を手にした色男の横から、
「あ、俺もう一杯おかわり。今年は今夜が喰い納めだしな」
と、職人がせっかちに割り込んできた。追加は先に立ち去らずに済む口実のようにも、老人には聞こえた。
 ひと昔前まで色々とひとに言えないようなこともしてきた。過去にすべてを置き去りにする代わりに、 ささやかな愛の暮らしもいつかの夢も捨て、こうして独り屋台を引いている。だが隠した腕の古傷が、冬の冷え込みで今でも疼く。 ある時から毎晩のように顔を見るようになったこの若い職人が、年のわりに暗く疲れた目をしていることには気付いていたのだ。 だからその淋しい犬のような黒目がちの瞳が、湯気の向こうで生き生きとする様を認めて、 自分の方までホッとするものを感じながら、 黙っておかわりを作り始めた。

「「ご馳走さん」」
 二人はほぼ同時に食べ終わり、ちょっと多めに銭を置いた。
「ありがとうよ。良いお年を、お二人さん」
「おじさんもな」
 降りしきる雪の中、返事しながらごく当たり前みたいに肩を並べた勇次に、秀が顔を顰めるが結局何も言わずに先に背を向ける。 胃の腑に収まった蕎麦の熱が冷めないように猫背気味に身を縮めて歩いていたが、横から傘が差しかけられているのに気がついた。
「俺はいいよ」
 避けながら固い声が言う。さっきまでの変な陽気さとは大違いだ。
「遠慮するなって。誰も見ちゃいねえ」
「!そういう意味で言ったんじゃねーよバカ!一体ぇおめぇ、どこまで付いて来る気だ」
 一度行ってみて留守だった意中の女の家が、同じ方向にあるならともかく。 目と鼻の先の長屋まで、もし勇次が送ってやるつもりでいるとすれば、たまたま出くわした自分はむしろ業腹だ。 長屋で待つ冷え切った寝床の冷たさが一瞬思い浮かんだが、振り切るように言った。
「俺に構わずもっぺんそこに行ってみたらいいじゃねぇか」
 ほおかむりで見えない横顔の男が何と答えるか、無意識に身構えた秀の耳に軽い笑い声が届いた。
「何が可笑しいんだ?」
「おめぇに言われる前ぇに、もっぺんそこを訪ねてるとこなんだがな、今」
「・・・」
 思わず足を止め、ポカンとした顔を向けた秀を見て、勇次が愉快そうに繰り返す。
「だからな。さっきおめぇんちに行ってみたら留守だったのさ」
「───」
「戻って来たら家主が屋台に居たってわけだ」
「―――な・・・、何の用で」
 狼狽えて口走るが、さっきからかって言われたことを逐一覚えていたらしい勇次が、先回りして傘と反対側の手を掲げて見せる。 ちゃぷんとうまそうな水音がした。
「良い酒まで用意していそいそ訪ねて来たんだぜ?早く中に入れてくれ、秀」

 明日の大晦日は加代と一緒に、おりくの手料理のもてなしの招待を受けた。 だから今夜はひっそりと二人きりで―――。悲喜こもごも色んなことのあった逝く年を見送るのだ。








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