(1) 目覚ましのアラームが鳴り始めた。 先にかけておいた二回分ほどけたたましくなく、くぐもって聞こえるのは、 アラームを止めた後そのまま布団のなかに放り出したせいだ。 相変わらず目は閉じた状態で、それでも秀夫は手足をシーツの上で動かして、音の本体を探る。 なかなか見つからず仕方なく目を開けたとき、 右腰の下あたりにようやくスマートフォンの固い感触が当たった。 「むぅぅ―――…」 意味不明な唸り声を漏らしつつアラームを止めた。三度目の正直でやっとのことでベッドの上に身を起こす。 一月半ばでも朝の七時半ともなれば、窓の外はすでに日が昇っている。 寝室の遮光カーテンの端から漏れる光で今朝の天気を確認すると、 天候とは真逆の重たいため息を一つ吐いてのっそりとベッドから降りた。 スリッパ代わりのクロックスを足で探し当て、つま先を差し込む。ゴムの冷たい感触にひやりと首を竦めた。 簡単にベッドを整えてカーテンを開ける。 思った通り、ここ数日穏当に続く小春日和の好天気。 正月気分もとうに抜けた普通の土曜日だから、空港まで特別な交通渋滞や混雑もないだろう。 秀夫は雲一つない薄水色の空を眺め、なぜか虚しさを覚えた。 一泊二日の小旅行に出るには、真冬の割に暖かくこれ以上にないコンディション。 だからこそ、旅の目的地を思うとかえって落ち着かない。心のどこかで、 天候不良とか何かの理由で急に飛行機が飛ばないことにならないかと、ゆうべ寝るときにもふと思ったのだ。 行くことを決めたのは自分なのに。 観光でも息抜きでもない旅。なのになぜ、空はこんなにも晴れやかなままなんだ。 「アラーム三回かけた意味あるのか?」 おはよう代わりに向けられたからかい口調に、声のする方を通りすがりに横目で睨む。 キッチン脇の小さなカウンターには、二人分の朝食が出来上がりそうで、 コーヒーマシンから最後の蒸気が吹き上がるところだ。 「最初のセットは何時だった?」 「…五時半」 アラームをセットするならせいぜい十五分置き程度にしろ、と勇次には前々から言われている。 中堅の一般企業に無事新卒での内定が決まってから、同居人である五つ上の男は、 今のうちに社会人としての心構えを刷り込もうというのか、大学生の怠惰な日常に口を挟むようになった。 「そんな時間に起きたこともねぇのに今朝に限って張り切るから、逆効果だ」 「うるせぇな。だいたい別に張り切ってねーし!お前が起こさねーのが悪ぃんだろっ」 出来立てのコーヒーが入ったサイフォンを取り上げた勇次の、呆れた顔を無視して、 プイと洗面所に向かう。分かってる。ただの八つ当たりだ。勇次の言うことは間違ってない。 それにあいつなら、自分の見当違いの口撃が、ナーバスになっている心の表れだとすでに気づいているだろう。 いつでもそうだ。バイト先の新しいレンタルビデオ店の客として出会ったときから、 山田勇次はやけに落ち着いた大人の雰囲気を漂わせていた。 そこはチェーン店ではなく、オーナーによる服飾のセレクトショップに併設された、 きわめて趣味性の強い会員制の小さな店だった。 外観に興味を持ちふらりと立ち寄って、初めて勧誘が成功した相手だというのに、 入ったばかりの秀夫は慣れない接客に四苦八苦していた。 スーツ姿もさっそうとしたイケメンは、急いでないからゆっくりでいいですと言って微笑んでくれた。 会員証を作るときに預かった免許証を見て、まだ25歳と知り内心驚いた。 自分もあと数年経ってその年齢になる頃にはこんなクールな会社員になってるのかな、 と漠然とした憧れを抱いたものだ。 あれから約三年。そんなふうに憧れていた男とバイトを通じて少しずつ親しくなり、 二年後にはバイトを辞めたあとにも生活を共にしているなんて、人生生きてるだけで何が起きるか本当に分からない。 表向きは両人ともそれぞれの知人友人への説明として、家賃を節約するためのルームシェア相手ということにしているが、 二人の仲は暮らし始めたときから恋人だ。 北陸のとある都市に住む両親には、勇次のことは伏せてある。 時間なら売るほどにある、しかも仕送りもして貰っている学生の分際で、 東京に出たきり盆正月にも帰らない息子のことを、ふたりがどう思っているのかは秀夫にも分からない。 が、あのとき―――。17歳の誕生日を迎えたその朝に、ある事実を父の口から聞かされたとき。 秀夫は両親と自分との間に決定的な深い溝を感じてしまったのだ。 それを感じたのは、真実を打ち明けられてショックを受けた自分の側だけだったのかも知れない。 両親も悩んだ末に、告げた方が息子のためだと考え抜いての告白だったと追い打ちで説明されても、 一度自分のなかに入ってしまった亀裂は元の通りに埋められなかった。 高校卒業と同時に東京に進学し、1年生のときに帰省はしたものの、 ぎこちない関係は変えられず、以来秀夫は一度として故郷に帰ったことがない。 電話で1年に数度、母親と短いやりとりを交わす程度だ。 親父が、そして母さんが。自分が今日しようとしていることをもし知ったら、どう思うのだろうか。 「秀夫?冷めるぞ」 リビングからの低いがよく通る声で我に返った。 トイレから出たあと、洗面所の鏡の前でぼんやりと自分の顔を見つめていたことに気付く。 「すぐ行く」 もうふたり分のチケットも買ったし決めたことだと思い直すと、勢いよく蛇口を捻って冷たい水を顔に浴びせた。 分館topに戻る
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