(8) 秀夫は車の中でまたもおとなしかった。涙を見せてしまったのが恥ずかしいんだろうと、 勇次はそっと横目で助手席の様子を伺う。 行きと違って、東京を出る前から続いていたピリピリした表情の険しさが今は抜け落ちている。 しかし、すでに何も見えない暗い車窓を眺めている放心した横顔は、 これからどうしようとどこか途方に暮れているようにも見えた。 市内に戻るとレンタカーを返却し、予約していたホテルへと向かう。さっきまであんなに静かな場所に居たのに、 いまは騒々しい街のノイズと人工的な匂いのする風の中を歩いている。派手なクラクションに我に返った秀夫が、 夢から醒めたふうな声でようやくポツリと口を利いた。 「……腹、減った」 考えてみたら、移動を優先するうち昼食をとるタイミングを逃していた。 自宅で朝食をとって以来、家主さんに出して貰ったお茶と茶菓子を遠慮がちに口にしただけだ。 すぐに腹を減らすくせにあの場でよくこいつの腹が鳴らなかったな、と勇次は可笑しくなった。 それだけ緊張していたんだろう。 「ホテル入ってから出直すの、面倒だな。先にどっかで喰ってからにするか?」 「それがいい。俺もう死にそうだ!」 二人とも一泊二日用の小さなバッグしか手荷物がない。勇次はホテルにチェックインの時間が遅くなる旨を連絡すると、 腹が減ったとうるさく騒ぎ出した秀夫の後に付いて、飲食店の居並ぶ夜の通りに紛れて行った。 三時間ほどのち。居酒屋に飛び込んだふたりは、いまは居心地よく空調の効いたホテルの一室に居る。 昭和時代の趣を十分に残した木造の外観に、煤けた赤ちょうちんがいくつも下がる居酒屋を『ここがいい』と言ったのは秀夫だ。 中に入ると、『らっしゃぃぃ!!』と威勢のいい声がかかり、 短髪の白髪頭にねじり鉢巻きをした親父と三十代とおぼしき板前がカウンター越しに笑顔を向けていた。 客と板場の間のカウンターは幅が広くとってあり、縦割りにした太い竹で仕切り氷を敷き詰めたそのスペースには、 活きのいい旬魚や大きな殻ごとの牡蠣や下処理した肉や笊に入れた野菜などがずらりと並べてある。 保冷とディスプレイを兼ねており、客はその中で食べたいものを指さして、 自分の好み通りに煮たり焼いたり揚げたりして出して貰えるというスタイルらしい。 秀夫は一目でそれが気に入ったようで、 お二人なら他にテーブル席もありますという中居の勧めを聞くより先に、カウンターの端席に滑り込むのだった。 かくして二人は、ご当地の旬の味と地酒を堪能しつつ親父やカウンターに居た常連客と会話するという、 いかにも旅人らしいことをして、おなかも気分もすっかり満たされた。愛想よく見送られながら店を出て、 冷たい風の中をホテルへと向かう。 「やっぱり広島は牡蠣だなー」 ぬくぬくした声で勇次が言えば、白い息を夜空に向けて吐き出しながら秀夫も答えた。 「アナゴの天ぷらも最高だったな」 ふわふわと肉厚な天ぷらで白ご飯を食べるのが気に入り、同じものを二度注文して中居のお姉さんに笑われたのだった。 コンビニで買ったお茶を口にしながら勇次がテレビを見ている間に、先に秀夫がシャワーを浴びた。 長風呂が嫌いなせっかちな秀夫がカラスの行水なのはいつものことだが、今夜はいつもにも増して上がるのが早い。 (ちゃんと洗ったのか。つぅか、ちゃんとあったまったのか?) そう思いながらも、勇次も入れ替わりに早くシャワーを浴びてしまいたかった。 一度点いた欲望の火は、酒のほどよい酔いと一緒になって、体中にじわじわと廻っている。 珍しいことにさっき部屋に入りドアを閉めた瞬間、 秀夫の方から腕を回して来てあてずっぽうに唇を勇次のそれに押し付けてきた。 触れた頬は冷たいのに、呼気は熱かった。日本酒の香が残った荒っぽいキスを秀夫は自分から仕掛けてきたのだ。 火花のように、今の今まで忘れていた官能が弾けた。勇次は恋人を壁に押し付けかけ、はたと動きを止めた。 ちゃんと風呂であったまって来いよ、と辛うじて肩を掴んで引き剥がしたのは、 いつになく積極的に迫ってきた秀夫の黒目がちの瞳が、 酒の酔いを借りているにしてはまだ、なにかを勇次に問いたげに切実な色を宿していたからだった。 (そういや…家主さんに親のこと訊かれたときに、何も言えずに項垂れてたっけな) ニュースを見るともなしに眺めていた勇次は、ふと思い当たる。 居酒屋でうって変わって明るく振る舞う秀夫を見ていて、どこか心ここにあらずといった様子にも感じていた。 戻りの車の中、秀夫の横顔に浮かんでいた心もとないような困ったような表情をあらためて思い出す。 これでもう、思い残すことはなくなったものと考えていたが、まだ秀夫の中には未解決の問題が残されているらしい。 『立派に成長なさって』 玄関先まで見送りに出てくれた家主の老女は、目を細めてそう呟いた後で、ごく当たり前なように自然に口にした。 『育てて下さった今のご両親も、さぞお喜びでしょうねぇ』 大学を卒業し、春には新社会人になる秀夫へのエールであることは間違いなかった。 が、云われた当の本人はそれを聞くなり二、三度激しくまばたきをし、わずかに表情を固くした。 てっきり照れくさそうに笑うだろうと思って秀夫の顔を見た勇次は、その表情豊かな目が一瞬泳ぎ、 行き場を失くして伏し目になったところを捉えていた。家主はその細かな変化までは気づかず、 下を向いてしまった秀夫をニコニコと優しい目で眺めている。 秀夫はそのまま無言で深々と頭を下げ、 『本当にありがとうございました。ご恩はずっと忘れません……』 やや上擦った掠れ声で最後の挨拶をしたのだった。 分館topに戻る
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