(7) 小一時間ほどの滞在のあと、ふたりは老婦人に丁寧に礼を述べ辞去した。 話好きで人懐っこい家主は、「もっとゆっくりしていけば」と繰り返し引き留めたが、 勇次が秀夫をそれとなく伺うと、頬を紅潮させボーっとしたような目つきで家主とぽつぽつと話をする横顔に、 すでに心ここにあらずといった風情がありありと見て取れた。 色んなことが一度に起こり過ぎて、整理が追い付かないんだろう。 勇次は今日中に東京に戻らねばならないから、とやんわりと時間的な制約を持ち出し、切り上げるきっかけとした。 今ふたりは、坂の途中の海を見下ろす場所に戻ってきていた。夕方5時という時間でもすでに日は落ちて、 夕日の残映がほんのりと暗く広がる海を光らせているだけだ。 秀夫も勇次も口は利かず、つい今しがたまでの家主との会話を自分のなかで反芻していた。 あの老婦人は、役場の元職員だったそうだ。 『電話ボックスに忘れ物かと思ったら、紙袋に赤ん坊が入ってた』 集落の住民からの通報を受けて、現場に駆け付けた。 赤ん坊は何枚ものタオルで包まれて三重に重ねられた紙袋のなかで、何も知らずにすやすやと眠っていた。 その当時は、夫もまだ健在で子供たちも一緒に住んでいた。同居の姉と相談し、名前をつけて自身の名字と一緒に、 母子手帳に載せたという。生みの親のことは何も知らなかった。 「姉とも色々と案を出し合った結果、私がお名前をおつけしました」 「……」 黒目がちの大きな瞳を見開いて食い入るように話に聴き入っている秀夫に、名前の由来を語ってくれる。 「ちょっと堅苦しい説明になるけど、秀夫の“秀”は、もともと穀物の穂を表してるんです。 ほかよりも成長の早い穂が垂れ下がる、という由来から転じて、花が咲くとか優れているとか伸び出るという意味があるのよ」 このひとも充分に先生になる素質があったんだな、と思いながら勇次は返事のない秀夫に代わって相槌を打つ。 「優秀の秀、とか漢字を説明するならそういう云い方をしますが、秀には元々そんな意味があったんですね」 家主は勇次を見て、笑いながら尋ねてきた。 「未来のことは私たちにはどうにも出来ないから……。 とにかく健康で強い子に育ってほしいと姉とふたりで懸命に考えて、最終的にこの名前にしたのだけど。 お友達のあなたから見て、この方はどう?」 「―――えっ…」 当事者の秀夫の同居人だという説明はすでに終えているが、悪戯っぽい目で自分に話を振られて、勇次も軽く動揺する。 「―――そう、ですね。はっきり言って、秀夫が今まで風邪を引いたり具合が悪いと言ったところを一度も見たことないですし」 「!おい、なんだよそれ」 ボサッしていた秀夫がようやく我に返り制そうとする。勇次がお構いなしに笑顔で家主に続けた。 「それに寝坊が多い割には大学の単位も一つも落とさず、就職先もあんがい早く決まりましたし」 「まぁ。それはすごいわね」 何もこんなところで寝坊の話なんか持ち出さなくたっていいだろ、と言いかけた秀夫が、 ふたりを面白そうに交互に見比べている老婦人の視線に気づき、顔を赤くして口を噤む。調子にのった勇次が、 名づけ親を安心させるような言葉で締めくくった。 「名前の通り、体も心も人一倍強いヤツだと、オレは思ってます」 帰り際、秀夫は玄関先まで出て来て見送ってくれた、今は独居のこの婦人のことが、血の繋がりのない大事な身内のように思えて、 切なくて仕方なかった。彼女自身は、近くに嫁いだ上の娘がしょっちゅう来てくれるから、 と独り暮らしでも不自由は特に感じないと言っていたのに。 「俺の…名前をつけて下さった方に会えるとは思いませんでした……」 最後にようやくお礼と合わせてその言葉が出た。思わず声を上ずらせる秀夫を前に、 私も会えて良かったわ、と家主は目を細めて呟いた。 「立派に成長なさって」 暗くなった集落の坂道を降りて、レンタカーを置いてきた場所に戻る。目の前の道路は、昼間よりも車が頻繁に行き交っていた。 秀夫はもう一度、電話ボックスを見た。そこだけポツンと、所在をアピールするように光るガラスの箱。 一瞬、ないはずの紙袋を見た気がした。 隣には公民館がある。公衆電話はその当時、集落の人たちがよく使っていた、と家主が言っていた。だから、 誰もが携帯電話を持つ時代になっても、この電話ボックスはずっとここにあって欲しいと皆の意見は変わらない、とも。 「…バス停」 ずっと黙ったままだった秀夫がポツリと口を利いたので、勇次は近づき顔を覗き込んだ。 「ん?バス停っていま言ったか?」 「……車んなかでお前が言ってたこと。ホントだったな…って思って」 「……」 「付いて来てくれて、ありがとな…」 暗くて顔がよく見えないのを幸いに、秀夫が小声で口走った精一杯の言葉がそれだった。 勇次はずっと、恋人にしたいと思いながら触れていいものかと迷っていた行為を、ようやくすることが出来ると思った。 それは、自分のダウンを脱いで冷え切った体を包んでやることだった。 「秀夫」 「…ん?」 「オレも一緒に来てみて、はっきり分かったことがあるんだ」 耳元で囁かれた言葉に、秀夫がちょっと顔を後ろに向ける。 「何?」 「生きて欲しかったんだな」 「?えっ」 思いがけない言葉に動揺する秀夫をギュッと抱き締めると、 勇次は冷えたままの耳たぶに唇を押し当てるようにして、直接吹き込んだ。 「お前を生んだその女(ひと)は、これがみんなが使う公衆電話だから」 「―――」 「見つかるように赤ん坊をここに置いたんだよ、きっと」 自分でもどこかでそう感じていた。捨てたひともきっと死ぬほど悲しんで苦しんで、 最後の望みをこの公衆電話に託したのだと……。でも、そう感じてしまうのは、自分がそうだと信じたいから、 ただの願いに過ぎないと。 「……お前もそう思う?勇…」 秀夫が自分の体に回った勇次の腕に両手をかけて、震える声を押し殺そうとしながら低く訊ねると、 「ああ。あのひとの話を聞いて…、お前を残していったひとの思いにも、触れた気がした」 来てよかった。諦めなくてよかった。勇次と一緒でよかった……。 秀夫は声を殺し、不意に迸った熱い涙を恋人の腕に吸い取らせながら、心からそう思った。 分館topに戻る
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