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(6)








(信じられない……)


 秀夫は、また同じことを胸の中で呟いている。グルグル回る頭のなかではその言葉以外にもう思考が働かない。 ほんの10分前までは、見ず知らずの場所に一縷の手がかりを頼りに来てみたものの、 何か事が大きく進展するというリアルな想像は、まるでイメージ出来ていなかったのだ。
 それが今。 招き入れられた居間の真ん中に置かれたコタツに、勇次と斜向かいに座り冷え切った足を温めてるなんて。
 母子手帳の下に隠れていた名字は、忘れることなく頭の隅に焼き付いていた。 女性から詳しい話を出来る人がいると聞いてから、前のめりになった気持ちに逡巡する余裕もなく、 その名を記した表札を目にした途端、すぐ脇の呼び鈴に思わず指先が吸い寄せられた。 あ、どうする、と思った時にはもう押してしまった後だった。
 昭和時代といった趣の和風の古い平屋建てだ。呼び鈴を鳴らしてしばし、 背後の竹藪を風が揺らす音を息を潜めて聞いているうちに、 はいはい、とやがて中から年取った女性の声がした。
 肩が竦むくらい心臓が跳ね上がる。が、いま開けますよと玄関の擦りガラスの引き戸ごしに小柄な人影が映り、 疑う様子もなく施錠を外したので、秀夫は驚いた。来客が何者か、開ける前に尋ねなくていいのだろうか?
 都会の暮らしには到底あり得ない警戒心のなさに、後ろに下がっていた勇次の顔を思わず振り返ってしまう。 勇次が(大丈夫)というようにちょっと頷いてみせた。 いざという時にはさっきみたく自分が取り成してやるという意味だろう。
「こ、こ、こんにちは!」
 勇次の援護に背中を押されて、開いた引き戸の隙間から不思議そうにこちらを見上げている白髪の老婦人と目が合うなり、 秀夫は精一杯のぎこちない笑みを浮かべて挨拶した。
「まあ、こんにちは。お元気でした…?あなた、どなたでしたっけ?」
 てっきりさっきよりも怪訝な顔をされると思ったが、その優し気な女性は秀夫の笑みに釣られるように会釈をし、 穏やかな細い声で尋ねてくる。秀夫のほうが混乱しかけた。
「えっ?」
(俺が来ることを分かってたような?いやっまさかそんな!)
「ごめんなさいねぇ。私ももうもの覚えがすっかり悪くなっていて、いついらした方なのか、全然覚えてないのよ」
「!あ、えっと、ち、違うんです!俺は、は…はじめてここに来ました。いきなりす、すみませんっっ」
 なぜか親し気な受け答えの女性が、知っている誰かと勘違いしてたんだと思い慌てて頭を下げた。 ところが老婦人は秀夫の言葉にも驚く様子もなく、ああそうですかと軽く答えただけである。
(このひと、なんで……?)
 異様に感じた秀夫が下げた頭のまま上目遣いに様子を伺うと、 こちらを見上げたそのひとは笑顔で頷きながら優しく言った。
「そんなに構えないでいいのよ。まあ上がって下さいな、そちらの方も」
 はい、お邪魔しますと背後で勇次の声がしたが、 自分と同様やや拍子抜けしている気配が、秀夫には見なくても伝わっていた。

 お待たせしました、と言いながら続きの間の台所からお茶のセットを盆にのせて、女性が戻ってきた。 ふたりが慌てて正座しようと腰を浮かせかけるが、笑って制される。
「コタツで正座なんておかしいでしょ。ふたりとも背が高いんだから、遠慮しないで足を延ばして」
 横目で互いの顔を見合うと、どっちも似たような困惑の表情を目に浮かべている。
「じゃ、お言葉に甘えます。―――それで、僕たちがなぜ突然お宅にお邪魔したか、説明させて頂きたいのですが」
 秀夫よりも立ち直りの早い勇次が、そこから話の切り口を掴んだ。 コタツをはさんで秀夫の向かい側に座った家主は、急須の蓋をとりながら勇次の顔を見て意外そうに訊いた。
「あら?あなたがた、卒業生じゃないの?」
「―――は?」
 勇次らしからぬ間の抜けた声を出したが、無理もない。ポカンと老婦人を見つめた二人の見知らぬ若い男を交互にかえりみて、
「まあ、私てっきり、〇▽小学校の卒業生なんだとばかり―――」
はじめて戸惑いの表情を浮かべている。
「小学校の卒業生…ですか?」
「ええ。子どもの数が減ってしまって、三年前ついに廃校になったのよ。その卒業生たちが訪ねてくるんです、 昔の分から保存してある卒業アルバムが見たいとか、廃校になるまでの話を聞きに」
「そうなんですか…。ということは家主さんは小学校の先生だったんですか?」
 勇次の問いかけに、老婦人はちょっと申し訳なさそうに首を横に振る。
「最後まで校長をつとめたのは、私の姉です。施設に入るまでは一緒に暮らしていたので、 みんなここに話をしに訪ねて来ていたんですよ」
「「―――……」」
 ようやくこの家主の来客に対する警戒心の無さの理由(わけ)にたどり着き、 ホッとしたのも束の間、施設という言葉を聞き、ふたりは揃って絶句していた。 うんと小柄なのに堂々と落ち着き払った言動や、知らない人間と知ったあとでも変わらないおっとりとした余裕が、 校長先生と言われても不思議じゃないという気がしたが。
 言葉に詰まった勇次の表情を見て、家主はハタと気づいたらしい。ごめんなさい、と笑った。 芯の通った人となりを表すような知的な感じのする笑い方だ。
「気を遣わなくていいんですよ。今じゃ私が皆の相手をしています、よく知ってるんでね。私も姉も卒業生なんです」
 明るい声で言いながら、淹れたばかりのお茶をふたりに出してくれた。
「「ありがとうございます。いただきます」」
 神妙な顔で熱い湯のみを両手で囲いつつ、お茶を啜る。やがて短い沈黙を破り、 勇次が静かに用件を再度切り出した。
「……それで、僕たちが聞きたいお話というのは、学校のことではないんですが」
「はぁ」
 それなら何のことだろうと、言葉にも表情にも怪訝そうな様子が見て取れる。急に秀夫の胸が激しく波打ちはじめた。
「ご近所の方から、その件に関して詳しい人がいると教えられたもので、 突然ですがこうしてお宅に伺わせて頂きました」
「ご近所の方?まあ、何のことかしらね」
 近所の人から教えられたと聞き、勇次の話に説得力が増したらしく、老婦人の声がさらに少し硬くなった。
「かなり古い話になります。僕たちはたまたま昔の新聞で記事を見つけたんですが、実はここにいる彼が―――」
 勇次がそこまで言いかけたとき、秀夫は俯いていた顔をパッと湯呑から上げると、 被せるように続きを口走っていた。 近所の女性に尋ねたのと同じ内容でも、今度ばかりは感情が高ぶり過ぎた言い方になってしまったが。

「にっ…23年前、ここの―――下にあるでん、電話ボックスに、俺、す―――捨てられてたんです」




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