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(5)








 バス停を通り過ぎて少し走ったあと、下り坂に入るカーブの手前で、 道は二つに分かれていたのだった。
 ナビがルート案内した300mというのはその分岐点のことだった。 そこまで来た勇次は、バス停を見つけてから黙り込んでしまった秀夫に一応確認する。
「行っていいか?」
「……」
 そのときちょうど秀夫は、視界に映ったあるものに気を取られて返事が出来なかった。 フロントガラスを凝視する横顔に気づき、ウィンカーを出してブレーキを踏んだ勇次も、その視線の先を追う。
 脇道は上り坂になっていて、固まって何軒かの家が建っているのが下からでも見えた。 今まで走ってきた本道路との分かれ目の土地は、ちょうど二等辺三角形のような洲になっている。 そこにも建物が建っていた。周囲に庭木や目隠しの垣根の類はなく、そこそこ大きいがかなり古びている。 同じ形で並ぶ窓にカーテンがないことからも、普通の民家には見えなかった。
「地区の集会所とか公民館かな?」
 思ったことを言ってみたが、秀夫からの応答はない。勇次がその固まった視線の先をもう一度追ってみると、 食い入るように見ているのは建物本体ではなく、その脇に建つ電話ボックスだということが分かった。 縦長のガラスの箱のなかに、蛍光がかった黄緑色の公衆電話と荷物を載せるための物置台が見える。
「公衆電話がどうか…」
 何気なく尋ねかけた勇次は、あることに思い当たり語尾を途切れさせた。 飛行機のなかで秀夫が話した、もう一つの情報。母子手帳の住所のほかにも、調べて分かったことがあると。 そのことをこっちを見もせずにぼそぼそと打ち明けた、俯き加減の横顔を思い出した。
「秀夫。もしかしてあれ…?」
「―――たぶん…」
 呟くような声を聞くなり、勇次はハンドルを切り建物の敷地内に乗り入れた。
 車を降りると、潮騒こそ聞こえないが海の方から吹いてくる風は思ったよりも強く冷たい。 勇次はすぐ後部座席に放っていたダウンコートを取り羽織ったが、秀夫は車内にいるときのフリース姿のまま、 寒さも感じていないかのように歩いて行った。
「あった」
 目の前に電話ボックスがある。ドアに手を伸ばしかけたが、触れる前に引っ込めた。 勇次は少し後ろで足を止めている。 ガラス越しにしばらく見つめるだけの背中に、静かなまなざしを注いでいた。
 23年前の春。入手した古い新聞記事の日付はまだ2か月ほど先だ。 ここで、へその緒がついたまま赤ちゃんが見つかった。タオルにくるまれ紙袋に入れられて、 電話脇の台の上に置かれていた。それが、生後間もない自分だ。
 やがてポケットからスマホを取り出し、秀夫はシャッターを押した。


 車はそこに置いたまま、上の集落に行ってみることにする。住民以外が通ることもないのか道幅は狭く、 離合出来そうな場所も下から見る限りなさそうだからだ。
 坂道は上るにつれかなりの急こう配になっていた。 曲がり角に立つ山吹色したカーブミラーの場所まで来ると、眼下にさっきよりも大きく海が広がっていた。 西日を背にして海を見下ろしながら勇次が腕時計を確認すると、時刻は午後三時半を回る頃だ。
 さっき秀夫に「行ってみるか?」と訊くと、頷いただけで先に立って歩き出した。 あれきり口を利かないが、途中まばらに出て来る民家をきょろきょろと見ながら何かを探している様子だ。 勇次は黙ってついて行くことにした。
 カーブミラーを過ぎてもう少し坂を上がるとまた何軒かの家が出て来たが、その先の背後は裏山になっている。 どうやらここが集落の行きどまりらしい。
 出し抜けにどこからかパチン、パチンと何かをハサミで切る音がして、ふたりはそろって頭を巡らした。 がさがさと葉擦れもする。斜め向かいのある民家のブロック塀の向こうからその音は聞こえてくる。 近づいてみると、誰かが庭先でミカンを取っているのだと分かった。
 今日初めて見る地元の住民だ、と勇次はその生活感のある光景を目にしてなぜかホッとしている自分に気づいた。 秀夫はというと、フリースの下の肩ににわかに緊張を漲らせたのが背中からでも伝わる。 塀に近づくと驚かせないためか控えめな声を掛けた。
「―――あのぉ。すみません…」
「…えっ?あっ…私!?」
 ちょっとの間をおいて素っ頓狂な声と同時にブロック塀の向こうからヒョイと顔を覗かせたのは、 60代半ばと思しき痩せた女性だった。白髪交じりの短髪に日に焼けた顔が面食らっている。
「あっ、す、すみませんいきなり!あの…あのちょっとお訊きしたいことがあって…」
 どちらにしても、女性を驚かせることになったようだ。無理もない。 ここに知らない人間が来ること自体、ほとんどないだろうから。
「訊きたいこと?」
 どう見ても二十歳前後にしか見えない若者を、女性は疑わし気に見ながらオウム返しに訊き返す。 そうしながら、その少し後ろに立っていたもう一人の男にいまになって気づいたらしく、視線が秀夫からそっちに移った。 勇次はその機会を逃さず、
「どうも。お忙しいところお邪魔します」
すかさずマイルドな微笑を浮かべ会釈した。女性は釣られて会釈を返してしまう。
 見たこともない二人連れの若い男たちを戸惑った顔で見比べる女性に、 いきなり秀夫が息せき切って尋ねた。
「あの、何か聞いたことないですか? むかし―――ずっと前に、この坂の下の電話ボックスに―――、 あ、赤ちゃんがすっ…捨てられてたって―――!」
 黙りこくって坂を上がっている間、頭のなかでずっとそのことを誰かに訊こうと考えていたのか。 秀夫の切羽詰まった声を聞いた勇次の胸は、前触れなくグッと締め付けられた。 だが同時に、突然そんなことを尋ねられては、おばさんも面食らうだろうとも思った。
 案の定、女性は「はっ?」とか「電話?」とかいう言葉を短く発して、皺の多い目元をまあるく見開いていたが、
「ああ!そのこと」
次に口を開いたときに出て来たのがその言葉だったので、 訊いた秀夫のほうがキョトンとしておばさんを見つめる番だった。
「え―――、あの…その」
 この人が関係者だと思ったらしく、秀夫が急にしどろもどろになる。勇次が後を引き取って尋ねた。
「ええ。昔の新聞の地域欄で見つけたその記事について、詳しい話をどなたかにお聞きしたいのですが」
 新聞記事を見つけて、という前振りが功を奏したか勇次の落ち着いた態度のせいか。女性は俯いている秀夫から背後の勇次に視線を移すと、 やけに疑いの晴れたような顔で頷いた。明るい人らしい。
「ああ、記者さんなのね、やっぱり。その話なら、あの竹藪の向こうに住んでる人が詳しいよ」
 有難うございます、行ってみます、とにこやかに頭を下げたにわか記者は、さも新人の後輩を引き連れて来たかのように、 行くぞと秀夫の肩を突いて促し、言われた竹藪目指してそそくさと踵を返した。 我に返った秀夫もおざなりな挨拶をおばさんに返して慌てて勇次の後を追う。
 おばさんはちょっと嬉しそうにふたりを見送っている。 この集落で昔起きた『事件』が今になって記事になるのだろうかと興味津々なのだろう。 今後しばらくは、新聞を隅々まで見て記事を探すであろう女性のことを想像すると気の毒な気もしたが、 秀夫の役に立ったのならばそれもまぁ仕方ない。
 女性の自宅を裏山のほうに回り込んだ最後のカーブの突き当りが、教えて貰った竹藪の向こうに住んでる人の家だろう。 二軒の家が建っていたが、手前の方の表札を読んだ秀夫が「あっっ」と息を呑んで短く叫んだ。
「どうした?」
 勇次が訊ねると、呟くような掠れた声で答えが返った。おそらく無意識だろう、フリースの胸の辺りを片手で強く掴んだまま。
「……母子手帳。修正液の下に書かれてた名字だ―――」




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