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 まだ実家に住んでいた高校三年生のある日。両親の留守中に、母子手帳を探そうと寝室に忍び込んだ。
 母子手帳という言葉があることもそれまでは知らなかった。 モヤモヤする気持ちと募る孤独感に堪え切れず、自分のルーツをどうしたら探れるのかという考えに至った。 ネット上で『捨て子』『養子』などのキーワード検索するなかで、その手帳の存在を初めて知ったのだ。
 貴重品をしまっておくような雰囲気のする場所がリビングにはなかったから、何か大切なものはきっと、 両親の寝室かその地続きの四畳半の収納庫のどこかに置いているのではと想像した。 果たして目指すものは、手作りが好きな母の裁縫道具入れの引き出しの奥に隠されていた。
 村上という今の名字が、修正液の上に書かれているのが目に飛び込んだ来たときには、 心臓がギュッと鷲掴みにされたようだった。バクバクと耳で聴こえるほどに激しく脈が打ち続けている。

俺はやっぱり実の子どもじゃないんだ。どこかの知らない誰かの血を引く、無関係の子どもだった―――

 これで動かぬ証拠を突き付けられたと思いながら 無意識に震える手でそれをなぞったが、ハッとして秀夫は顔を近づけた。 修正されているということは、その下に前の名前が記してあるんじゃないか。
 ライトを持ってきて、おそるおそる裏から光を当てると、別の名字が透けて見えた。


 勇次の危なげない運転で、交通量の多い国道から県道に入りナビの指示通りに進むと、 走る車の量も少なくなり町並みはどんどん郊外から田舎ののどかな風景に変わってゆく。
「あー!見ろよ。気持ちいいなぁ」
 畑の続く丘を越え開けた場所に出たとき、そう遠くない眼下に水平線が光るのを見つけて、 勇次が声を上げた。ぼんやりとフロントガラスの先を見ていた秀夫は、長い指の示す方向を見る。 帯のような青い海のラインが眩しく目を射た。
「前に来た時も見たの、覚えてる?夏だったんだろ」
「…さぁ」
 曖昧に答えつつも、海を目にした瞬間、なぜかふっと懐かしさを感じた。まるで覚えていないはずなのに、 一度見た風景だったような気になるから不思議だ。
「でもたぶん、この道を通ったんだとは思う。バス通りだし」
 今度は秀夫が通りすがりのバス停を顎で指す番だった。
「じゃ、もうすぐ秀夫が降りたバス停が出て来るはずだな。見えたら教えろよ」
「は?そんなの分かるわけねぇよ。三年も前だぞ」
 秀夫は即座に否定した。いくつもの集落を通り過ぎ、海まで緩やかなアップダウンを繰り返して続く道を、 さっき地域のコミュニティーバスがすれ違って行った。 自分が大学1年の夏に乗ったときは、まだ普通のバスだったと思う。 その時だってそれほど乗客はいなかったけど。
 今回、通常よりも一回り小さくなったバスに乗っていた客は、ちらっと見たぶんには二人か三人だけだった。 無表情のお年寄りがひとりずつバラバラに座っているのを目にして、寂れた故郷の現実を見たような切ない気分になった。
(こうやって少しずつ人がいなくなってゆくんだろうか)
 あの日、ドキドキしながら車窓ごしに外を眺めていた。 次の停留所の名前を聞き慣れないイントネーションの語尾でアナウンスされる度、 どこに向かっているのだろうかと不安を覚えた。住所に出て来る地区名がついに出てきたとき、 思わず停車ボタンを押していたことを、急にクーラーのあまり利かないバスの蒸し暑さまでリアルに思い出した。
 詳しいことは分からないまま、行ってみたいという気持ちを抑えられずに初めて訪れた。 心のなかにはずっと、誰かに訊いてみたくてたまらない疑問が渦を巻いていたからだ。

お金がなかったのだろうか。若すぎたのだろうか。

自分は生まれてきてよかったのか……

「もしかしたらバス停自体なくなってるかもな…」
「あるって。路線そのものが無くならない限り、そう簡単にバス停を無くしたり場所を変えたりしないさ」
 だんだん重くなる気持ちになぞらえてポツリと呟くが、運転席で勇次が楽観的に言う。 秀夫は冷たい目で相方を見た。
「なんでそんな見てきたみたいに言えるんだよ?あん時だって、 帰りは二時間も待ってたのに俺以外に誰も乗らなかったんだぜ」
 勇次に物理的にも気持ちのうえでも今、頼らざるをおえないのは承知の上で、少しイラッとしてしまう。 勝手に同行して来た勇次のほうは、このドライブを解放的に愉しんでいるとしか思えない。
(人の気も知らねぇで)
 また八つ当たりしかけた言葉をすんでで呑み込んだ。 戸籍に書いてあった住所にナビを使って行けば、きっとその周辺までにはたどり着けるはずだろう。 そしてその後、どうしたらいいのか。その家を探すのか。もし見つけたらどうする? 誰かそこにまだ住んでいるんだろうか。それはもしかしたら本当の―――。
 ナビ上では目的地周辺までもう20分もない。 近づくにつれあの疑問がぐるぐると回りはじめて、シートに落ち着いて座っていられない気持ちだった。 勇次はそんな秀夫のナーバスな視線を横目で捉えると、すぐ前に目を戻して答える。
「そんなバス停でも昨日までずっとそこにあったものが、明日いきなり無くなるってなったら困るだろ」
「そりゃ、いちおバス停だからちょっとはショックかな。 でも日ごろ使ってなかったら無くなっても別に困らねぇだろ」
「理屈はな。でも、日ごろ使うかどうかが問題じゃなくて。意識しなくてもそこにあるのが当然だったものは、 無くなってみて始めてやっぱり大切だったって気づくこともあるんじゃねぇか」
「大切…?バス停が?」
「だから使わないからって理由で無くなったら、住民からは絶対文句が出ると思うんだ、オレは」
 大げさだなと笑い飛ばしかけて、秀夫はもう一度運転席の横顔を見た。 同居生活のなかでも普通の会話に紛らせながら、勇次はふと気になることを言う時がある。 今も寂れたバス停を引き合いにしつつ、そのやけに確信めいた口調の裏側に何かを感じた。 何かとても大事なことを言われてるような、忘れていることに注意を向けさせるような…。 でも何のことを言われたのかよく分からない。
「ゆう…」
 尋ねかけた秀夫の声に、ナビの音声が被さる。この先300mを右方向という指示を聞いて、 勇次が後方をミラーで確認しつつ減速した。午後三時過ぎという時間帯のせいか、 車の通りはまばらだった。
 秀夫は唾液をグッと呑み込むと、進行方向の道の左側を遠くすかし見た。 陽ざしの中、赤と青のラインの入った丸いバス停の表示板が小さく目に留まった。
「―――あっ。あれだ!!まだあった―――…」
 そのバス停の名前を確認したら、初めてのようだった景色が変った。 自分がたしかに一度来た場所だ。道を挟んだ向かいの畑に立つ作業小屋の青いトタン屋根を、 暑さに朦朧としながら何度も目にした記憶までもがよみがえっていた。




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