23

(10)








「秀夫。いい加減起きろ。―――おい!起きろって。聞いてるか?家じゃねぇんだぞ」
 ああもう。うるさい。今日は特にしつこくないか?秀夫は呼びかけに意識が浮上してきても無視し続けていたが、 今度は強引に肩を揺すられたので、不機嫌な唸り声をあげて反対側に背を向けようとした。
「こら!オレはギリギリまで寝てたっていいんだぜ。ここの朝メシ食ってみたいって言ったのは…」
 勇次が言い終わる前に、秀夫は死体のふりから起き上がるなり叫んでいた。
「それを最初に言えよ―――!!も―――っ!!なんでもっと早く起こさねーんだよぉ!!」


 15分後には、げんなりした顔の勇次の先に立って、 リッチなブレックファーストがウリのホテルのレストランに意気揚々と足を踏み入れている秀夫だった。
「右手奥のカウンターで、シェフが卵料理やステーキなど焼き立てのお料理をご提供致します。 パンは今朝は全部で8種類ございます。 その他にもペストリーやマフィン、ビスケット、オリジナルのシリアル等ございます。 パンケーキとホットサンドウィッチは、その場でお作りしますのでお申しつけ下さい。 左手がサラダバーとブッフェ、隣がデザートとドリンクコーナーです。ーーごゆっくりどうぞ」
 丁寧な説明をひと通り受ける間にも、きょろきょろと落ち着きなく動く秀夫の黒目がちの瞳は、 あり余る期待でキラキラと輝いている。 想像していた以上の豪勢さに、眠気などどこかに吹っ飛んだらしい。
「うわ!ステーキだって!?東京でも俺、朝からこんなとこで喰ったことねーよ!うわーースゲぇ!なぁ勇次、 あの回ってる茶色いの何だ!?チョコレート??」
 秀夫のテンションがガン上げなのも無理はない。 考えてみれば朝どころか、ふたりでちょっとしたレストランに行ったことがこれまで一度もなかった。 誕生日やボーナスの時にどこか行きたいかと訊いても「別に」と張り合いのない答えしか返らなかったし、 今さらという気がして勇次も、仕事上の接待等でシックな店にはいくつか面識はありながら、 秀夫を連れて行くことは思いつかずにいた。 が、まるで高校生の修学旅行みたいなはしゃぎように、 さすがに寝ぐせがついたままの秀夫の後頭部を軽く叩いてたしなめる。
「わかったわかった。ほら、いいから早く取りに行け。オレが席取っとくから」
「恐れ入りますが、ご宿泊のお客様方はあちらの席でございます。 あ、それから、ご質問頂きましたものはチョコレート・ファウンテンです。お好みのフルーツなど付けて召し上がれます」
 すかさずウェイターがすまし顔で割って入り、この手合いには馴れているといった風にすらすらと答えた。 秀夫が脇から(ざまーみろ。お前だって慣れてないくせにーwww)というようにニヤリと白い歯を見せたのが癪に障る。
(…まったく。調子に乗ってられるのも今だけだぞ)
 何が今だけなのか分からないが、憑きものが落ちたように本来の明るさと元気を取り戻している恋人に、 ホッとする反面なんだか自分の役目が終わった気もして、軽い虚脱感を感じてしまう勇次だった。


「ごちそーさんでした」
「あれ?もういいのか?」
 挨拶してフォークを皿に置いた秀夫に、向かいの席でおかわりのコーヒーを飲んでいた勇次は思わず訊き返した。
「ん。もーいい」
「ふーん。珍しいな」
 取りあえずはひと通りすべてのコーナーを制覇したのは当然として、 まだしばらくはあちらこちらにうろつくものと思っていたのだ。 ふう、とため息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかった秀夫は、勇次の呟きを聞いてジロッとこっちを見た。
「俺だって腹に限界があるんだよ」
「ま、そうだろうな。ゆうべも結構食ったしな」
「それに、こんなに至れり尽くせりでハイどうぞ!ってなんでも用意されてると、かえって食欲が萎えるんだ。悔しいけど」
「贅沢なやつ…。いや、違うか。貧乏性ってことか―――ははっ」
「哂うなよっ。どーせ俺はす〇家の朝定かド〇ールが合ってるよ!」
 食ってかかりながら自分でもそうだと思っていたのか、秀夫も釣られて笑っていた。勇次は両手で支えたカップごしに、 そのどこかぼんやりした切なさの浮かぶ顔を眺め、微笑んだ。
「目が潤んでる。疲れたか?」
「とーぜんだろ。うちに戻ったら今度こそゆっくり眠りたい」
 当てつけのつもりか小さくあくびをしながら答える。ホテルという非日常な空間でのセックスは、 やっぱり互いを興奮させるものらしい。明け方近くに二人はまた夢み心地のままで触れ合い、そのまま最後までしてしまった。 少し観光でもと思っていたが、秀夫の目つきを見て勇次は頷いた。
「今日はもう午後の便で戻るだけだよ。土産を買う時間は充分あるな」
「土産?会社に?」
「出張でもないのに、そんなわけねぇだろ。おふくろにだよ」
 勇次の答えに、秀夫が一瞬目をぱちくりさせる。
「…おふくろ…」
「そ。一度会わせただろ、おりくさん。覚えてるか?」
 覚えてるどころの話ではない。あんなインパクトのある個性と雰囲気をたたえた女性が母親だなんて。 赤坂で彼女のやっている飲み屋にある晩連れて行かれて、 いきなり「この女(ひと)、うちのおふくろ」と紹介された時には驚いた。 不意打ちで母親に会わせられたことにも動揺したが、 これまで会ったことのある友達の母親のなかには、絶対にいないタイプだったから、忘れられるはずがない。 引きずるような低い声で『いらっしゃい』と挨拶されたとき、カッコイイなと第一印象からして思った。 お母さんというイメージよりも、むしろこういう店で使うママという呼び名の方が似合いそうだ。
 勇次は母のことを話題に出すときには“おふくろ”と言っているが、 本人と向かい合ったときには“おりくさん”と呼ぶ。 またおりくさんの方でも、息子のことを“勇さん”と呼んでいるのだ。 他人行儀にも聞こえるが、母子はどちらも気にしている様子もない。そういうところも、 なんだかアダルトな雰囲気の似合うクールな親子関係に見えて、内心で羨ましいと思ったものだった。
「おりくママ、さん…元気?」
 会わせる前になんで先に言わないんだよ、とあとで勇次に文句を言ったことを思い出しながら訊ねる。
「元気元気。十日くらい前に電話で話したけど、“あら、あんた生きてたの” だって―――あの調子じゃまだまだ現役辞める気はねぇな」
 勇次が呆れたように言ったが、そこにはそんな母を誇らしく思う雰囲気が感じられた。
「秀夫くんは元気にしてるか?って言ってたぞ」
「えっ!俺のこと覚えてた?」
 今度は秀夫が訊く番だった。だって会ったのはもうかなり前で、しかも身内と聞かされてにわかに緊張した秀夫は、 勇次とのことがふとしたことからバレないかと気が気でなく、出来るだけ口を開かないようにしていたのだ。
「そんなに驚くことねぇだろ。覚えてるに決まってるよ」
「・・・そうか?」
 客商売なだけに、一度会ったら忘れないんだろうか。 ルーム・シェアの相手として紹介されたとは思っていたが…。
「付き合ってるって、あのひとには話したからな」

「――――。えええええっっっ!!!」

 人々の話し声や食器の立てる音、グリドルで何かが焼ける音、無難な朝のイージーオーケストラ。 そんなBGMで賑わう広い店内ですら、その素っ頓狂な声はけっこうよく響き渡った。ハッとして秀夫が口を塞ぐが、 周辺の視線を一斉に浴びてしまい、ふたりは着席したまましばし俯いてほとぼりを冷ますしかなかった。
「―――バカ。そんなに騒ぎ立てることかよ」
 顔を動かさず目だけを上げた勇次がぼそりと言えば、
「だっ…だって―――そんなのいきなりだろ!?驚くに決まってんじゃん!!」
小声で秀夫もすかさず応戦した。顔が見事にピンク色に上気している。
「いつ―――、いつから知ってんの、おりくさん?まさか…まさか会った時にも―――」
「いや、そうじゃない。去年の夏頃だったな、職場の飲み会の後でたまたまおふくろの店に一人で寄ったんだ。たしかその時」
 接待や仕事仲間との酒席の場に出ることもわりと頻繁な勇次は、 散会した後に時にはふらりと母親の顔を見に立ち寄っているらしい。街なかで店を構える母と客として訪れる息子。 酔いにあかせて、勇次はうっかり自分たちの関係を喋ってしまったんだろうか。
「先に言っとくが、酔った勢いでバラしたんじゃねぇからな」
 秀夫の複雑な表情から読み取ったのか、勇次が先回りして言った。
「そのうちあのひとには話すつもりでいたから」
「っっ。な――なんでっ?」
「なんで?付き合ってる相手を親に紹介しちゃいけないか?」
 喧騒が戻り、いつもの余裕のポーカーフェイスを取り戻した勇次に逆に問われて、秀夫は言葉に窮した。 いけなくはない。いや、いけないわけはないはずだ。でも自分たちは―――…
「…だっておりくさん、ショックじゃなかったかと思って」
 我知らず俯き加減になりながら秀夫が呟くと、テーブルの下で勇次の革靴が秀夫のスニーカーを軽く蹴とばした。
「なんだよ、ショックって。秀夫お前、なにをそんなにこだわってんの?」
「……」
 問われても秀夫もよく分からなかった。勇次がおりくさんに自分たちのことを告げていた事実そのものを怒ってるわけじゃない。 ただ、いきなり同性のルームメイトが実は同居中の恋人だったと打ち明けても、親子の関係に支障がないほどに、 ふたりの信頼関係が強いことにある種の衝撃を覚えていた。
「いや…。ホントの親子って、ある意味すげえんだなと思って」
「ホントの親子?」
 皮肉のつもりじゃないのに、どこか口調がギクシャクしてしまう。引き攣りかける口元に卑屈な笑みを浮かべたまま、 秀夫は怪訝な貌で問い返した勇次に向かって言った。
「俺――――。俺はたぶん、ムリだ。うちの両親に、お前のことを打ち明けるだなんて―――」
 心臓がギュッと鷲掴みにされたような緊張が高まり、秀夫は言わなきゃ良かったと瞬時に後悔した。が、もう後の祭りだ。 沈黙している向かい側に座る恋人が、この一言でスッと席を立ってしまわないかとまで思った。
(馬鹿だ俺…。そんなこと勇次に言ったって仕方ないことなのに――――…)
 ゆうべの涙と後悔がまたぞろ胸に去来してきて、秀夫は慌てて目を瞑った。地元の両親に会いに行きたい。 今までの数年間のことを謝りたい。少しずつでもいいから、親子の絆を取り戻してゆきたい―――。 その気持ちは本当の本当なのに―――。

「秀夫」
「……」
 返事もせずに俯いている秀夫を眺めて、勇次が困ったようなため息交じりの笑いを漏らす。カリカリと頭を掻く音。
「なぁ――。そのままでいいから、聞いてくれ。オレもこれをお前に話すつもりはなかったんだけどさ…」
 勇次は何の話をしようとしてるのか?おりくさんに話してた以外に、まだ隠してたことがあったのか?
「お前はいま、“ホントの親子”って言ったけどな。それが血の繋がりを意味するんだったら間違ってるぞ。 オレとあのひとは、血の繋がりがない赤の他人同士さ。…お前んちの親子関係と同じだよ」




分館topに戻る