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 ホテルは12時がチェックアウトだから、慌てて出る支度をせずに済んだ。
 部屋に戻り、先に洗面所を使っている勇次の鼻唄が途切れ途切れに聴こえている。 秀夫はゆうべ使われなかった方のベッドに身を投げ出した。
(頭ん中がふらふらする…)
 さっきレストランで聞いたこと。それを秀夫に話すときの勇次の、どうってことない落ち着き払った口ぶり。
『だって実際、どうってことない話だからさ』
 なんでそんな重要なことを今まで黙っていたのかと責める秀夫を、まぁまぁと宥めて答えた。
『オレの場合、中学に上がる前に親父が事故で死んじゃったんだよ。で、元々うちは父子家庭のうえ、 他に親しい親戚とかも居なかったわけ。それで、施設に行かされるところにあのひと―――おりくさんが来て、 オレを引き取るって申し出てくれたのさ』
 その話のどこが、どうってことないんだ。おりくさんは、死んだ父の葬儀に来てくれた女性の一人だったのだ。
 漠然と記憶に残るくらい少ない参列者しか居なかったこと、 その中でも一人だけ黒い着物を着た姿が小柄だが背筋がスッと伸びていて、とても美しかったこと。 印象的なその女の人が静かにお焼香を済ませた後、学校の先生に付き添われて立つ勇次の前に立ち止まり、 ジッと見つめて来た。勇次もまた、女性の顔を見つめ返した。
 勇次は泣いていなかった。泣くどころの状態ではまだなかったということもあるが、どこか冷めた諦めの気持ちもあった。 生前から父はよく言っていたからだ。オレに何かあったら、お前はどうなっちまうんだろうなと。 勇次の母は、仕事がなかなか続かず安定しない暮らしに嫌気がさして、ある時どこかの男と逃げた。 父はそんな母を恨むでも血眼で探すでもなく、これでお前と二人きりだなあと呟いて寂しく笑っていた。 いつかいきなり居なくなるんじゃないか、と子供ながらに思う時があった。
 そんなことをうそぶいて息子を不安がらせていたわりに、特に何の策も講じていなかったらしい父が、 唯一たまに連絡を取り合っていたのが、若いときに地方から上京してきて初めて付き合った女だった。
 安キャバレーでうさを晴らしに行き、そこの新人の娘に絡んで戯れかかったが、あべこべに遣りこめられてしまった。 それが縁で二人は出逢い、嘘のない態度と客に対しても筋を通すその娘に、父は一目惚れしてしまったというわけだった。
『おやじも馬鹿だよなあ。フラれてもフラれても口説いて拝み倒して、ついに一度は一緒に暮らしてたけど、 甲斐性無しで結局別れることになったのに、ずっと忘れられなくて―――あのひとの周辺を未練たらしくうろついてたんだ』
 自分の方からは決して連絡などし返さなかった。が、急死の報が届くほどには、何らかの繋がりを保ち続けていたのだろう。 出棺前の最後のお別れで棺桶を覗き込んだとき、彼女の白い頬にひと筋、涙が伝うのを勇次は見た。 よく分からないけれど、父の為に本当に泣いてくれるひとが居たと知ったら、自分のことみたいに感謝したくなった。
『だからオレをあのひとが引き取るってなったときも、なんていうか―――、ああ、そうなんだなって、 妙に簡単に腑に落ちてる自分が居たんだよなぁ』


 横倒しに寝転がって瞑っていた目を開けると、ぐちゃぐちゃになった向かいのベッドの惨状が視界に飛び込んでくる。 汗とか他に色んなので湿ったシーツとか本来の目的とは全然違う場所に押しやられた枕とか。 ゆうべ、というか今朝の明け方まで続いたアレコレを思い出して、ますます頭の中がおかしくなる。
(さすがにツインルームで不自然すぎるよな、この状態は)
 気になって身を起こした秀夫は、なんとなく綺麗なシーツをわざわざ引っぱって皺を寄せてみた。 掛け布団を人が寝ていたように微妙に乱したり、枕の位置をずらしてみたり。
「何やってんだよ、さっきから」
 いつの間にやって来ていたのか、勇次に裏工作を見られていたらしい。秀夫がビクッとして振り返ると、 げらげら笑いながらベッドに腰かけてきた。背後から抱き締められ、そのままベッドに上体ごと倒される。
「笑い事じゃねーよ!ちょっとコレ、恥ずかしすぎるだろ!!」
「誰が泊まってるかなんて、客室清掃のスタッフがいちいち把握してるわけねぇだろ。こんなの日常茶飯事だよ」
 ムッとして反論出来ずにいながらも、じたばたする秀夫の顔にキスしてきた。 勇次の愛用するアフターシェーブローションの爽やかな残り香が漂う。鼻孔を通じて、 ジワリと熱く溶け出すような胸の高鳴りを感じてしまい、秀夫は動揺した。いつも嗅ぎ慣れた匂いなのにどうして。
「は…。歯磨いてくる」
 ずっとこうしてたい、と一瞬沸き上がった想いをどうにか抑え、秀夫がストライプのシャツの腕の下で小さく声を出すと、
「ん?ああ、そうだな。―――あと30分もないぞ」
勇次が身を起こしてやっと解放してくれた。バスルームに向かいつつチラと振り向くと、 テレビを付けようとしているところだ。私服でもシャキッと皺の無いシャツを着こなす背中が、憎らしいほどカッコいい。
(まったく―――。ひとの気も知らねぇでよ)


 おりくさんへのお土産は、あれこれ迷って二つに絞った。ひとつは勇次から、もうひとつは秀夫から。 それとは別に、勇次は広島の日本酒を買った。
「あのひとには、こいつが何より悦ばれる」
 そして東京に帰ったら土産を持って、数日のうちに店に行こうなと微笑んだ。照れくさそうに何度か瞬きしながらも、 神妙に頷き返した秀夫だった。
 機内への搭乗案内がアナウンスされ、前列の席だった二人は早いうちに座席に落ち着いた。
「――――。勇次、」
 次々に通路を進んでゆく乗客のざわめきの中で、ホテルを出る前あたりから妙におとなしかった秀夫がボソッと呼びかける。 勇次は取り出した機内誌の表紙を見ながら返事した。
「ん?なに」
「…あ、あ―――、ぁのな」
「うん」
「いつか、って言っても社会人になる前までにって話だけど―――。俺一度、…実家に帰ろうと思うんだ」
 勇次の切れ長の目が、窓際の席に座る秀夫を見た。
「で、…も、もし―――都合が合うんなら、おっお前も来ないかなと思―――」
「行く」
「まだ言い終わってねえよっ」
 照れ隠しにつっこんだが、そう言って見返した勇次の顔にも、らしからぬ照れたような表情が浮かんでいた。
「行く。そうと決まればスケジュールの調整だな。―――いつにする?」
「待てよ!べ、べつに俺、だからって、お、お前をそーゆう…そーゆう意味でお、親に会わせるんじゃ―――」
「分かってるよ、秀夫。そうじゃなくていいから、オレはお前の育った場所と育ててくれた両親に会ってみたい」
「――――」
「オレは東京しか知らないから、お前が田舎のいいところ、案内して教えてくれると嬉しいよ」
「〜〜〜。どさくさに紛れてお前、田舎をバカにしてんだろ!」
 肘で小突き合ってるうちに、フライトの準備が整ったようだ。毛布を手にした客室乗務員が、客席に利用を尋ねてまわる。 ひじ掛けの上で勇次の掌に自分のを重ね合わせていた秀夫は、一瞬腕を引きかけた。 が、勇次の指が軽くそれを引き留める。
「お客様、毛布はご利用ですか?」
 笑顔を向けられた秀夫はキュッと勇次の手を握り返して、お願いしますと笑って答えた。






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