早春物語1 その少年を見かけたのは、たまたま仕事で卒業写真の撮影に来た高校でのことだった。 過去を思い出し気が進まないままやって来た放課後のグラウンド、 ショートトラックを駆ける一人の男子生徒の姿に、蒼い風そのものを見たと思った。 思わず勇次はカメラを向けていた。 早春物語2 驚くほど可愛い顔してしかし口には悪魔が棲みついていた。「何だよ、勝手に撮るんじゃねえよ」 野球部のフェンス越しに黒目がちの気の強そうな瞳が勇次を睨み付ける。「悪かったな」 素直に謝っておいた。どこか見覚えがあると感じたのは思い違いだろうか。 早春物語3 カメラ好きでいつかプロの写真家になりたいと、勇次は早いうちから自分の進路を定めていた。 都内で飲み屋を経営する母の客のつてで、フォトスタジオのバイトを始めたのは高校からだ。 そのバイト先で出会ったのが、この高校に通う同学年の友人だった。 早春物語4 あの少年がどうしても気になり、二日間の撮影の後もう一度グラウンドを覗いてみた。 遠目でもその姿はすぐ目につく。そこに立っているだけで切り取られた画のようだからだ。 通りかかった少女に名を尋ねると、一瞬怪しい目で見上げた後で教えてくれた。 …死んだ友人と同じ苗字だ。 早春物語5 練習を見に足繁く通いはじめた20代半ばらしき男に、秀はイラついていた。 見られることには慣れている。つきまとってくる奴がいることにも。しかしそれよりも気になるのは、 あいつがカメラマンだということだ。走ることを途中でやめてカメラを手にした、死んだ兄と同じ。 早春物語6 「よく続くよね」陸上部マネージャーの加代がひそっと耳打ちする。「そいえばさ、あんたの兄貴もよく」 「うるせぇよ」秀が遮り背を向けると何よ!と後ろから追い打ちをかけられた。 「いい加減現実を受け入れなよ!」返事の代わりに秀は逃げるように駆けだした。 早春物語7 加代のせいで久しぶりに兄の夢を見た。大好きだった八つ違いの兄。いつも秀を撮っていた。 お前は最高の被写体だと。そんな兄が秀が高1になったとき、裸を撮りたいと言った。 見たことない兄の表情に秀は怖くなり抵抗した。兄は数日後、自宅のガレージで首を吊り発見された。 早春物語8 「最近はなに追っかけてんだ?」吸い殻と資料で埋まったデスクの向こうで主水が尋ねる。 無名の才能発掘に定評ある出版社の喰えない編集部の男だ。勇次も友人も彼に拾われた。 「あいつと同じ苗字のランナーを見つけた」主水が溜息を吐く。 「まだ引きずってんのか…無理もねぇか」 早春物語9 主水も勇次も、弟の存在はまったく知らされていなかった。 風のようなあの少年は一見似ていないのに、走る姿と真剣なまなざしに勇次は友の面影を見出していた。 卒業して数年は会っていたが、友はある日突然、自らの命を絶ったのだ。 勇次の告げない本当の想いを知らぬままに。 早春物語10 降り出した雨は、帰宅時には豪雨になっていた。 そんな中、昇降口でひとり雨間を待つ秀に例の男が声をかけて来た。 「送るよ」秀は車から降りて傘を差しだす男をジッと睨んだが、 やって来ても見るだけで撮るでも話しかけるでもないこの男に、内心興味を覚えていたのは事実だった。 早春物語11 ほんとに自宅に送るのかと危ぶんでいると案の定「見せたいものがある」 と言って男は逆方向に車を走らせた。どこかに連れ込むようなら車が止まったら叫んでやると身構えていたら、 着いたのは小さなフォトスタジオだった。「心配しないでいいよ」男が見透かしたように秀に微笑んだ。 早春物語12 スタジオの二階のプライベート空間に、懐かしい姿を見つけて秀は息を呑んで立ち尽くした。 まだスプリンターを目指していた頃の兄の雄姿。モノクロのたくさんの写真。 「友達だった。君を見たとき走り方が重なったんだ」 秀は兄に憧れて中学に上がる前から真似をして走っていたのだ。 早春物語13 「これ見せて何だってんだよ」唇まで蒼ざめさせて秀が呟いた。 「兄貴は勝手に死んだ。俺は許さない」 「理由に心当たりはないのか?」酷だと思ったがつい訊いてしまう。少年は激昂し思いがけないことを口走った。 「俺のせいかよ!俺が兄貴から逃げたのが悪ぃのかよ!?」 早春物語14 勇次が主水の元を訪ねると「おい。よっく探してみたら出て来たぜ」 投げて寄越したのは、生前友が持ち込んだとみられる写真と幾つかのモノクロフィルムだった。 あどけない表情とか細い手足の男の子が、颯爽とした少年へと伸びやかに脱皮してゆく姿が克明に切り取られていた。 早春物語15 「この前は悪かったな」出会いがしらに先に謝られ、秀は決まり悪げに横を向いた。 「別に。俺も」この男が兄の古い友人だからといって悪い人間というわけではない。 「頼みがある。オレに君を撮らせてくれないか?」不意に勇次が口火を切った。 秀は大きな瞳を丸くして男を見上げた。 早春物語16 どういう心境の変化?との加代のからかいを秀は無視した。翌日から勇次はカメラを構えて走る秀の姿を追った。 最後まで見届けたあとは時に待ち合わせて一緒に帰る。 夕食をご馳走になることもあった。友と兄。お互いにとって失われた時間を取り戻すひと時でもあった。 早春物語17 フィルムの現像は心躍る瞬間だ。浮かび上がる秀は様々な姿で勇次を魅了する。 思わず溜息をついたその時、秀があの日叫んだ言葉の意味が突如として腑に落ちた。「…」 兄弟間の秘密に思い至ったのは、自死した友と同じ葛藤を勇次自身抱え始めていたからだった。 早春物語18 近ごろ勇次が来ない。秀は何となく物足りない思いで練習に出ている。 「あの人が来ないと張り合いないみたいね」「!そ…そんなわけねぇよっ!」 加代に言い返してムキになって何本か走っているうち、 ごく見えにくい場所にあの車が停まっているのに気づき、ドキンと胸が高鳴った。 早春物語19 「なんでそんな所にいるんだよ」秀が近づくとサングラスをかけたままの勇次が苦笑した。 「最近忙しくて」 「…練習終わるまで待っててくれる?」珍しく秀がそんなことを言い出して俯く。 「秀。…オレは」 フェンスに引っ掛けた秀の指に、勇次の指が一瞬絡んだ。 「ごめん。今日は帰るよ」 早春物語20 その夜秀はなかなか寝付けなかった。何か言いかけて口を噤んだ勇次は、迷い悩んでいるように見えた。 ひょっとして秀の密かな想いに気づいたのだろうか。彼は兄の面影を投影しているだけだから、 自分を避けようとしているのだろうか。「なんで…?」初めて知る胸の苦しさだった。 早春物語21 今も夢に見ることのある、あれは高3の夏の終わり。 久々に遊びで走ると言い出した友に勇次はカメラを構えたが、 ファインダーを通して見る姿の眩しさに胸が苦しくてシャッターを切り損ねた。 チャンスは一度きりだ。二度と同じ後悔はしたくない…。 目覚めた勇次は心を決めた。 早春物語22 競技会に見に来て欲しいとぶっきらぼうな口調で告げた秀の、怯えたような瞳のなかに、 勇次は自分と同じ心を感じ取った。「もちろん。いい写真を撮るよ」「それよりいい結果を祈ってくれよな」 「大丈夫。秀のどたん場の集中力は兄貴そっくりだからな」口にした途端しまったと思った。 早春物語23 あからさまに傷ついた瞳をハッとして見返すと、 「そうだよな。あんたは俺を通して兄貴を見てるだけだもんな」 「違・・・」「スタジオの兄貴の写真に話しかけてるんだろ。お前に似てるって!」 それだけ一息に云うと、秀は勇次の止める声にも耳を貸さず駆けだして行った。 早春物語24 会わないまま競技会当日を迎えた。秀は雑念を払うために黙想していた。 目を開けたとき、視界の先に勇次を見つけた。弟の才能を信じていた、兄の愛し気なまなざしとも重なる。 兄を、彼を信じたい。そして自分を信じて、いまの姿を勇次に撮らせよう。秀は凛としてラインに立った。 早春物語25 なるべくいい位置で撮りたいと思うあまり、常になく前に出過ぎてしまった。 「オイそこ!邪魔なんだよ兄ちゃん!」出場者の身内らしき乱暴そうな男が昼間から酒に酔い絡んできた。 もうスタートまで時間がない。会釈もそこそこ黙って行き過ぎようとしたのが余計に癇に障ったらしい。 早春物語26 男は背後から喚いていたが、構わず勇次はカメラを覗いていた。自分にとって今や特別な存在になった秀。 決して友の代わりでなく。(好きだ) 祈りを込めてシャッターを切ろうとしたその時、何か固いものが背中に激しく振り下ろされた。 パンというピストルの音と同時に、勇次の目の前がスパークした。 早春物語27 見学用のパイプ椅子で殴打されたと分かるはずがなかった。 カメラを抱いて膝から崩れ落ちながら、昏い胸の内で勇次は呟く。 オレはまたシャッターチャンスを逃したってわけか。 まったくツイてないな…。 意識の遠のくなか、誰かの叫ぶ声と駆けてくる音がかすかに聞こえた。 早春物語28 ぼんやりと目を開けたとたん、秀の顔がどアップで迫っていてドキリとした。ついでに首の後ろと背中が激しく痛んだ。 「急に起きるなよ!まだ動くな」泣きそうな声で秀が体を張って勇次を押し返す。「…レースは」 秀が黙り込み瞼を伏せた。スタートを乱し棄権扱いになったのだ。 早春物語29 「もうっ!大人のくせして!まったくもってハタ迷惑よ、山田さん!」加代に叱られながら秀と一緒に他の選手を応援した。 背中は痛むが軽い脳震盪だ。自業自得だと、勇次はどれだけ秀にしか意識が向いていなかったかを反省している。 秀が人目も憚らず勇次に寄り添っていた。 早春物語30 「秀、ごめんな」「いい…まだ大会は残ってる」三年生最後の競技会には万全で臨むと言って、秀が笑顔を見せた。 ふたりは勇次の車で走っている。「今まで撮った写真、見に来るか?」 急に無言になった秀が、窓の外を向いたままで小さく頷いた。重ね合っていた手を軽く握り返して。 早春物語31 秀の卒業した春、勇次の写真展が開かれた。友の撮ったものと勇次のあらたに撮った写真の合同展だ。 「ええっ!俺こんな顔してた?」年代は違えどどれも自分ばかりの写真に囲まれ、訪れた秀は恥かしがった。 なかに1枚だけ、誰かが撮った兄弟の笑顔のスナップ写真も含まれていた。 早春物語32 秀はある実業団陸上部へと入社が決まっている。「なかなか会えなくなるな」 勇次が寂しさを誤魔化すために自分から口にすると、秀は黙って顔を背けた。 片付けも済んだ二人きりのギャラリーで、勇次はそんな秀を抱き寄せる。「寂しくなる」 顔を覗き込んで正直に囁いてみた。 早春物語33 「俺…」何か言いたそうで言えずに俯く秀の目に光るものがあった。 勇次は指で拭うふりをして顎を掬い、唇を重ねた。黒目がちの瞳がいっぱいに見開かれる。 もう一度長い口づけをして「…続きはまた」囁くと、真っ赤な顔の秀が目の前で眩しく笑った。*完
【後記】
140文字以内という制限のなかで、一話ごとに物語を進めてゆく実験でした。 いま読み返すと、説明不足で分かりにくい部分も多々目につきますが、 出した話を後から変えるわけにはいかないので、 次の展開分までを考えながら毎日書くことが新鮮でした。 行間を色々想像してお読み頂けますと嬉しいです。ありがとうございました。 分館topに戻る
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