聖なる夜に口笛ふいて 5









「・・・ヒデ。お前はバカだけど、性格は良いし、顔も良い・・・。体だって、好いんだろ・・・たぶん。 だからきっとそのうちに、お前のこと・・・大事にしてくれる誰かが見つかるさ・・・」
 頼むだけのことは頼み言うだけのことは言った後で、オレはヒデの体からゆっくりと自分の身を引いた。 動かずにオレの声を聴いていたヒデが、急に重さのなくなった自分の体に不安を覚えたらしくブルッと震え、 言い知れぬ想いをダダ洩れさせた表情でオレの顔を見上げた。
「俺・・・」
「・・・そんな顔するな」
 記憶のなかにだけあったと思っていた瞳をそこに見出した気がして、何を考えるまもなく、 オレは痛みも忘れてコートのあいだから手を伸ばすと、その乱れた髪に指を差し込んで引き寄せていた。
 ふたりの唇があまりに自然に重なったから、初めてするということも忘れてしまいそうだ。 手をそのままずらしてヒデの細い首の後ろに回すと、オレは残されてるだけの力をこめて引きつけ、 ありったけの気持ちを最初で最後のキスに込めた。
 もういつもみたいなディープキスは無理だが、舌をその薄く開いた唇に忍ばせて、 愛撫するように軽く絡ませる。黒目がちの瞳がうっとりと細められ、それでもオレを捉えたまま放さない。 今までしてきたどんなセックスより、深い愉悦と一体感、充足を感じられる永い口づけだった。
 ひとしきりその温もりと甘さを堪能した後、名残惜しくそっと唇を離しつつ横目でばばあを見ると、 こっちに背中を向けていてくれたのでそれも可笑しかった。

「・・・じゃぁ、な」
 至近距離で囁き、オレはヒデから永遠に手を放す。力を込めて押し返したわけでもないのに、 ヒデは自分からよろめいて後ずさった。オレは表情を変えぬよう盛大な努力をしながら立ち上ったが、 貧血のせいで一瞬くらりと目の前が昏くなり、ややぐらつきかけた。
「アニ・・」
「触るんじゃねぇ!」
 まだオレに、こんな声で威嚇出来る力が残ってたとは。差し出しかけた手をビクッと宙に浮かせ、 頬を張られたように立ちすくむヒデと、その声でハッと振り返ったばばあと。 海の底みたいに静まり返った教会のなかで、オレが深く低く喉から送り出す呼気だけが響く。
「・・・もう行く。ここからひとりにしてくれ」
 コツ、とエナメルの靴の先を踏み出せば、不思議と背筋が伸びた。 もはや苦痛を感じるには血が足りないのかもしれない。オレは朦朧としながら自分の耳の遠くでその靴音を聴き、 一歩ずつゆっくりと歩き出した。
 コートの内側ではスーツのズボンにまで染みわたる濡れた感触を感じながら、 それでも少しでもこの教会から離れることだけを、いまのオレは願っていた。 ここで倒れて息絶えて、教会に迷惑をかけるわけにはいかない。
 ドアを苦心して開ければ、それこそ痛みすら忘れるほどの冷気がオレを包んだ。 三段の階段をゆっくりと降りる。ポタ、と一滴、雪の上に真紅の雨が降る。 急ごう、出来るだけ。
 ふたりに、オレの無様な姿を最後に見せたくもない。半端やくざの見得と矜持を振り絞り、 背中でドアを閉じた。



 あの少年と逢った日の朝に、ばばあの元を逃げ出してやって来た近所の公園に、オレはたどり着いた。 砂場は記憶してたよりも随分小さかったが、その脇の木製のベンチは風化し過ぎて取り換えられたばかりなのか、 同じ場所にありながらまだ新しかった。
 ゆっくりと腰を下ろし、凍てつく無人の公園を目だけで見渡す。座ったその先にポツンと一つだけ点いた灯りが、 シンボルツリーのイチョウの大木と並んで立っている。完全に葉の落ちたイチョウが白熱灯に下から照らされて、 深まる夜のなかでカラカラに干からびた骨標本みたいに、虚空に向けて不気味な枝ぶりを伸ばしていた。
 ふ、とやっとのことで力を抜くことが出来、オレは腰をずるりと前のほうにずらして両足を広げると、 前のめりに倒れ込まないようにしてベンチに背中を預けた。 教会で話しをしてる間、何度となくこみ上げてきた血の味。しかし咳き込めばどうなるか分かっていたから、 グッと呑み込んでは発作をこらえてきた。が、もう何の遠慮も要らない。穴の開いた場所からの激痛に呻くと、 ゴホッ・・・とくぐもった音と同時に口から大量の血が溢れた。
 靴を伝い落ちる滴は、もう小さな流れになっていて、オレの足元の雪をじわじわと染め続けていた。

死ぬってのは、案外ラクなのかもしれねぇ・・・

 オレは撃たれたり刺されたりして死ぬ男たちを見てきて、 即死以外はもっと苦痛にのたうち回りながら悶絶し息絶えるもんだと思ってた。 が、オレの場合は・・・、一発喰らった鉛玉を抱えたままうろつき回り、 だらだら血を流して時間をかけて緩慢な死を迎えるってケースなのか? それはそれで苦しいが。
 どっちにしろもう、苦しみのピークは過ぎたようだ。ここまでくればもう、ただ朦朧としながら座りつづけ、 消耗の果てに意識がなくなるまで。体からすべての血が出てゆくのが先かそれとも、凍死するのが先か・・・
 ばばあとヒデの顔を思い浮かべた重たい瞼を、重力のままに閉じかけた時。 ふわっと一瞬、動きの停止したはずのオレの隣に羽根のように風が舞い、なにか熱を持つ柔らかいものが寄り添った。

「・・・・・」
 バカ。なんでまだ付いてくるんだ。見てもないうちから、それが何かオレは分かっていた。 怒鳴ることも出来なければ押し返すこともオレにはもう出来ないのに。
 そう胸のなかでヒデを叱り飛ばしながら、それでもどこかで、こうなることを知ってる自分がいた。 何でもオレの言いなりのこいつが、ダメだと言われても絶対に聞かないのは、 ただひとつオレから離れること・・・。ゴホッ・・・とまた喉奥から血が噴き出した。
「・・・デ。寒・・い。さむい・・・」
 血まみれの口で、ヒューヒューと喉が鳴るしゃがれた声で、オレはヒデに訴えている。 最後の最後でお前に泣き言を言うなんてな・・・。けど、もう仕方ない。甘えさせてくれ。 カッコ悪ぃが、オレはいま・・・お前がここに居ることが嬉しい・・・。
 オレを覗き込んだヒデは珍しいことにもう泣いていなかった。 それどころかあるかなしかの笑みさえ、さっき触れたばかりの形の良い唇に浮かべてた。 まるでばばあの薫陶を早速受けたかのように、静かで妙に落ち着き払った様子でかすかに頷くと、 両手を広げてオレを包み込んだ。
 不思議なことがその直後起きた。ヒデの両腕に抱き寄せられたオレの体から、 ス…と肉体の感覚が失われたのだ。いや、感覚そのものはあった。 だがそれは温かさとヒデの腕の頼もしく心地よい力加減だけで・・・。
 鉄の枷を全身に背負わされたような重たさや言葉には到底出来ない傷口の破裂しそうな痛み、 あきらかに抜け出てゆく血の流れ、ドロドロに纏いつく不快さ、 皮膚を破って今しも骨が突き出てくるのではないかと思わせる容赦のない凍気。 出来るならば早く解放されないかとひたすら念じていたそんなものが、総て一瞬でオレの上から取り払われていた。



「・・・?・・・・・」
 オレはのろのろと瞼を上げる。あれほど重力に圧されていたオレの目は、ゆっくりとだが普通に開き、 さっきのイチョウといつしか降り始めてた大き目の雪の乱舞が視界に飛び込んで来た。 良かった。この調子で夜通し降ってくれれば、オレが路上に遺した血の跡も足跡も、 きっとこの真っ白な雪化粧が隠してくれる・・・。
「・・・ヒデ?」
 我に返り、オレを抱きかかえたまま一言も喋らないヒデの顔を首をやや捩じって見ると、 さっきの不思議な微笑みを浮かべたまま、さも愛し気に嬉しそうに、オレの目を覗き込んでいた。
 そこでオレはふと気がつく。微笑ったまま泣いてるのかと思ったが違ってた。 ヒデの左頬には、涙の粒かそれともあの空で瞬いていた星屑みたいな痣が、 なにかの印(しるし)のように浮き出ていたのだ。
 今度こそ、見間違えではなかった。オレはあの天使の像と同じ場所に散らばる印を、約束の証拠を・・・、 ヒデの天使みたいな貌の上に見つけていた。
「お前は・・・誰なんだよ・・・ヒデ?」
 もう薄々と分かってはいたが、それでもあえてオレは訊ねた。ずっとオレのすぐ傍にいたくせに、 なかなか姿を見せず、そのくせ知らないうちにオレと一緒に暮らし泣いたり笑ったりしてた、 悪戯で不器用な天使に。
「俺、約束したよね・・・?覚えててくれた、きよしくん・・・?」
「あぁ・・・。忘れるわけ、ねぇよ」

僕はずっと君のそばにいるから・・・。どこにいても一緒にいるから、僕を忘れないで。
約束だよ、きよしくん・・・

 痛みや苦しみからは解放されたが、全身の力はどんどん抜けてゆく。 それにひどく眠い・・・。こいつに会えたのにオレは口を開くのもおっくうになってきてる。 思考が少しずつ働かなくなってきた。
「ヒデ・・・。せっかくの約束だが・・・。遅・・すぎたな。オレは・・もう、ダメだよ」
 言いながら、生まれて初めてオレの目に熱いものが湧き、堪える間もなくあっさりと決壊していった。 とめどなく溢れだす涙はしかし、オレの積年の恨みを悲しさを後悔を、なぜか押し流す力もあった。
「正体分かってりゃ・・・もっと早く・・・お前を抱いてたのになぁ」
 天使のくせしてヒデは、泣きながらのオレの軽口にさっきのキスを思い出したのか、 ふんわりと頬を染めて何度か瞬きする。 でもまんざらでもない様子で、自分のほうからやがてオレの濡れた目尻に、柔らかな唇を触れさせてきた。
「・・・ダメじゃないよ」
 はにかみながら、ヒデはもじもじと囁いた。
「・・・え?」
「これからでも遅くないんだよ・・・。俺は君を迎えに来たんだから」
 オレが不可思議な言葉に無言で視線だけで問うと、ヒデは照れた目つきから、 一転して夢の中にも出て来そうな綺麗な笑みを浮かべて、歌うように答える。
「きよしくん。君があの教会にやって来てくれたから、俺は中庭で独りで寂しくなくなったんだよ」
「・・・・・」
「だから今度は俺が、君を別のお庭に連れて行ってあげる・・・。空のうえのお庭に。・・・そろそろ行こう。 大丈夫だよ、きよしくん。これからもずっと俺たち、そこで一緒にいられるんだ・・・」
 だんだん激しさをまして音もなく降りしきる雪のなか、ヒデの声に寝かしつけられるようにオレは頷き、 口のなかで「行こう…」やっとのことで返事をすると、我慢出来ずに目を閉じた。 少しずつ遠のく意識のどこかで、ヒデが静かに口笛を吹き始める。
 誰でも知ってるクリスマスの歌・・・、そう、『きよしこのよる』だ。 そういえばこいつは、一緒に暮らしてるときにも時々これを吹いていたなと、 今ごろになって思い出し、オレは夢の中で笑っていた。 季節を問わず年中繰り返してこればっかり吹いてるから、これしか知らないのかと呆れてた。

そういえばあの晩、最初に教会のミサで聴こえてきたのも、この曲だったよな・・・

 色んなことがゆっくりとパーツが嵌ってゆくようにオレのなかで美しい一つの環になって、完結した。 幸せな、これまでに感じたことのない安らかさと喜びに包まれて・・・。
 オレは包み込むヒデの柔かい抱擁とその温かな音色のなかで、すべてを手放した。



 一晩降りしきった雪が夜明け前に止み、ここ数年来のまとまった積雪量と朝のニュースでも報道された、 ホワイトクリスマス当日。五十鈴教会を私服刑事が訪ねて来た。
 刑事はここの責任者に逢いたいと言い、シスターは私ですと応対する。 一日解放中の小さいが居心地の良い教会に出入りする、他の信者たちの邪魔にならないかと恐縮しつつ、 刑事はちょっと聞きたいことがあります、と小声で言ってシスターを外に連れ出した。
「・・・実は、この近所の公園で今朝早く、ひとりの男性の遺体が発見されました」
「・・・」
「あ、ちなみに外傷はどこにもなく、他殺とかの事件性は低い、凍死が死因だと考えられています」
 シスターは表情に乏しい白い顔を黒いベールの陰からチラと動かし、その中年の刑事を見上げ訊き返した。
「・・・凍死?」
「ええ。昨日はイブでしょ。どこかのパーティにでも出かけて酒に酔って帰り際に公園でひと休みするつもりが、 そのまま寝いっちまって・・・っておおかたそんな事だとは思うんですが」
「それで・・・?私に聞きたいことというのは?」
 私服刑事は分厚いブルゾンの内側に手を突っ込み、何か折りたたまれた紙らしきものを取り出した。
「身なりはかなり良いんで、どこかのエリートのビジネスマンだとは思うんですが、 バッグ類はおろか財布も免許証も何ひとつ身に着けてなかったんです。盗られたのか自分で捨てたのか・・・。 それはこれからの調査になりますが。それで遺体の着てたスーツのかくしから、これ一枚だけが見つかりまして」
 長い前置きのあとで目の前で開かれたその紙を一目見て、シスターはハ…、と声に出さずに小さく唇を開いていた。 何度も繰り返し畳んだり開いたりしたらしい。四つ折りの跡がもう破れかけているそのB5版一枚の紙は、 五十鈴教会が昔から手刷りで発行している、月ごとの祈りの言葉だった。
 シスターが日常の暮らしや四季折々の時節ごとに感じる雑感を随筆風に綴り、そこに聖書からの言葉の抜粋や、 今月の聖句についての記述もある。教会で行われるイベントの情報も載せられていた。 そうぎっしり詰め込んだ内容ではないが、雑事に追われていれば毎月の発行はそれなりの苦労を強いられる上、 無料配布のものだから、手刷りとはいえ費用もかかる。 それでもシスターの言葉を心待ちにしている信者たちからの要望もあって、 ここ数年前から季刊発行に切り替えて発行を続けている。
 男の胸の奥深くにしまってあったのは、切り替える前に出した最後あたりのものだと、 発行年月日に目をやったシスターは気が付いた。 三年前のイブにやって来たあの子が、帰り際に取っていった一枚・・・。 ひときわ大きめに書かれた自分の手による一文をシスターは凝視した。
『神はあなたと共におられます』
折に触れて、あの子はこの紙を開いては読み返していたのだろうか・・・?
「・・・すみません、シスター?」
 紙を見たまま動かないシスターに、刑事が声を掛ける。
「これだけしか身元確認に繋がる情報がなくて、我々も困りましてね。 こんなにボロボロになるまで所持してるってことは、ガイシャ・・失礼、 遺体の方も相当大事にしてたんじゃないかと思ったんで、」
「・・・分かりました。ひょっとして、教会に通われていた信者さんかもしれませんね・・・」
 話の早いシスターの一言に、刑事はホッとしたように相好を崩した。
「ええ。そうなんです。・・・で、こんな日に大変申し訳ないんですが・・・後でちょっとだけ遺体の顔の確認を・・・」

 どこにも外傷のないその男の遺体は、古くからある公園のベンチでひとり座ったままの状態で見つかった。 犬の散歩に来る住民が、こんなところで眠っているのはおかしいと近づいてみて、 血の気のない男の貌に仰天して通報したのだった。
 検死の結果、死亡推定時刻は深夜一時過ぎ。その頃には雪が降りしきっていたはずなのに、 なぜか朝発見された男の黒いロングコートにも髪にも、雪は積もっていなかった。
 まるでどこかで息絶えたものをここに持ってきて置いたのではないか、 と疑われるほどにその遺体にはただの一つの外傷もなければ、体内からの毒物麻薬の検出および病体も見出されなかった。 死に顔は穏やかで、安らかに微笑んでいるようにも見えた。
 担当した検死官曰く、『今まで検死してきた中で、こいつは一番きれいなホトケだな』と感心したとか。 感覚の麻痺した検死官でなくともそう思わされるほどに、 シスターが『面会』した男は、死化粧をほどこされたように美しい寝顔をみせて眠っていた。


 それから三月近くが経ち。
 ようやく寒さが緩み、風のなかに春の気配を感じられるようになったある晴れた日の午後、 シスターはひとり中庭に出た。
 なぜか身元が割り出せないままになった不思議な男は、シスターの『確かに昔何度か来られた方です』の証言で、 最終的には教会が身元引受人となることが合意された。 いま遺体は教会でのささやかな葬儀を済ませて、この中庭の天使の像の足元で小さな墓標の下に眠っている。
 当時40歳になったばかりの彼女の元に、前触れもなく与えられたひとりの幼い少年。 さまざまな懺悔を聞き共に祈りを捧げた彼女に、自分の住居を遺してくれた信者同様、 与えられたものは神からの預かりものだと信じている。
 突然教会の前に置き去りにされ心に深い傷を負った少年を、ただ受け入れ見守り続けるのが自分の役割だと思ってきた。 感情を外に出さずどこか冷めた目をしているその子供が、 心の奥底に隠した孤独を、不信をどうやって解き放てるのか。
 非行に走り出した思春期の彼に、シスターは為すすべもなく、ただ神に祈り続けた。
彼をお救い下さい、神様。あの子は本当は優しい人間なのです。


 手負いであることをひた隠しにしたまま、最後のイブに自分の元を訪れたあの子が連れて来た、 不思議な雰囲気の青年。どこかで見たような、と思ったことは言わずにおいた。
 が、青年を見るあの子のまなざし、態度。青年の行く末を自分のことよりも案ずる懸命な懇願を聞き、 シスターは神があの子に与えた救いの手を見たと思ったのだった。
『・・・おばさん。ありがとう。彼は俺が迎えに行くから、どうか安心してください』
 さっきまでの頼りない泣き虫の背中が、追いすがれないシスターの悲しみ苦しみを癒すように静かな声を発した。
『・・・?あなた・・・・・?』
 一度だけ振り向いて微笑んだ青年の美しい貌は、何の光源もないのに光り輝いて見えた。ハッと胸を突かれた瞬間、 ドアが開いたのかも分からないうちに、いつの間にか青年はかき消すように居なくなっていたのだ。 その夜シスターは、一晩中祭壇の前にひざまずき、彼と青年のために祈り続けた・・・
 今年の春にはこの中庭をもっと花が匂い鳥が集まる小さな楽園にしましょう、 とシスターはひとり胸のなかで呟く。白い十字架の墓標の辺りにふと目を遣ると、 この季節にして珍しく蒼いクロッカスの蕾が、土の中から顔を覗かせているのに気が付き、しゃがみこんだ。
「まぁ、きよしさん。あなた少し気が早すぎですよ。もうしばらく静かに休んでいなさい。春は・・・ちゃんと来ますから」
 話しかけた後、何となく顔を上げて天使の像に同意を求めてみる。 ずっと長い事ここに置かれて見慣れていたにも関わらず、清々しい雲の無い空を仰ぐそのまなざしは、 シスターの目にはどこか今までになく柔らかく優しく、悦びを謳歌しているように映った。
 そしてあの、左の頬にあった涙の粒か星屑を散らした痣が・・・いつの間にかなくなっていることに気が付くと、 彼女は胸の前で静かに十字を切った。目元を滲ませて、ゆっくりとその場を立ち去った。






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