「おう中村!」
 嫌なヤツにめっかっちまった。主水は真後ろからかかる上司のべらんめぇ調に辟易しつつ、仕方なく振り返る。
「何ですか?私、今日のお務めは店じまいですが」
「居眠りばっかしてる野郎が何言ってやがる。…と言いてぇとこだが」
「何です?」
「飲み行くぞ」
「へ?珍しいこともあるもんですなぁ、内山様のようなどケチが…」
「ばぁか。奢るのはおめぇだ」
「なっ、何で私が」
「牢破りの高月を取り逃がしたじゃねぇか。無能な部下の不始末を俺が上から責められたんだ。奢るくれぇ当然だろ」
「生憎といま手元不如意でして…」
 逃げようとした羽織の袖をすかさずハシと掴まれ、さらにドスの効いた声で強請られる。
「分かってるぞ中村。おめぇ吉原で相当袖の下貰ったこと…」
 心中の生き残りは見せしめとして衆目に晒されるのが公儀の法度だ。 その後は年季明けもなく終生客をとらされるまでが刑罰だと知っていたら、馬鹿な心中に踏み切る女も少しは減るかもしれない。 ま、そんな女を苦界に送る手間賃で小遣いを稼いでいる己が、どの口でそれを云うか。 だから主水は黙って同心としてのお役目を続けていた。
 お染を吉原に下げ渡す任を仰せつかり、落札した松本楼に顔を出すたびに少なくない巡回料を貰っていたことは認めよう。 が、同じ事を陰では絶対やってるはずの上司の指摘はともかく、なぜあの簪屋までもがそれを嗅ぎつけたのか…。
 播磨屋の若旦那に簪全て買い上げて貰い、嬉々として蕎麦屋に駆け込んで来た裏の仲間に、 同じ図星を指された時の違和感が今さらフッと主水の頭を掠めた。真っ昼間、職人が吉原に行かねばならぬ用はそうないはずだ。
(あるとすりゃ、…あいつか)
 鼻っ柱の強い秀の軽蔑するような目つきに続いて、あのノッペラボーのいけ好かない冷笑と耳障りな端唄が脳裏に再現される。 おおかた吉原に三味線を届けに来たか教えに来たかの際に垣間見たことを、こそっと秀に語って聞かせたとしか考えられない。
 裏仕事の密談中の二人はほとんど目さえ合わさず、離れた場所で互いにそっぽ向いている。 勇次は自分の立ち位置を理解しているらしく、いたずらに秀を刺激するような言動はしなかったから、主水も高を括っていたのだ。 自分と同じく、秀にも三味線屋を仲間として受け入れる気は毛ほどもないと思っていたが。
(あンのガキ……。裏切りやがったな)
「…内山様」
「ん。何だ?」
「本音と建て前、上手い見抜き方はないもんでしょうかねぇ」
 自分の事を当て擦られたと思った鬼瓦上司が、すかさず雷を落とす。
「中村ぁ!!人聞きの悪ぃこといちいち訊くんじゃねぇ!!そんなこたてめぇで察して判断しろぃ!」
 すみませんと珍しく素直に謝り、あいつらの事など金輪際放っておこうと固く胸に誓う主水だった。






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