橋の向こうから見えてきた男の顔に気づいて、秀の足はつい止まる。 遠くからも目を惹く目鼻立ちは、行き交う女たちを見返らせる程の引力を相変わらず放っている。 が、いつもなら癪に障るその美貌がやや暗い影りを帯びているのに、秀は気づいた。 (まだ引きずっていやがんのか) 切れ長の涼しい目元を伏しがちにして、心ここにあらずといった物憂い表情だ。 例の一件で守れなかった、盗賊の元情婦の死を悔やんでいるのかと思った。 それとも、女が残した赤ん坊を胸に抱いて江戸を去った母のことを忘れられずにいるのかも知れない。 今回の仕事は、三味線屋に牢破りをした女が逃げ込んできたことに端を発した。 不遇な身の上を聞いて、親子を助けてやりたいとの情けが湧いたのは、 裏の顔とは関係なくおりくが抱いた同じ母としての想いだったのだろう。 だが勇次は母を手伝う形で関わるうちに、匿った女の悲しい過去に自分を投影させていたのか。 二人が心を通わせていたのかどうかは知らないが、 女はおりくにこれ以上の迷惑をかけるまいと自ら動き、それが裏目に出て鬼畜どもの手にかかって死んだ。 仕事を終えたその場で、おりくが八丁堀に「勇次をお願いします」と告げ立ち去ったこと。 勇次も母の後を追わなかったこと。そんな顛末を後から加代に聞いた。 過去はどうあれ何もかも通じ合っているように見えた母子にも、癒えない葛藤があったのだ。 (たしかにおめぇには気の毒だったよな…) 不思議だが今、一人きりになった三味線屋に対する心の垣根が、ほんのちょっぴり低くなったのを秀は感じている。 あいつが気づかないならすれ違いざま、ようと一声かけてやるくらいには。 了
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