「まぁ可愛い!ね、ちょっと抱かせてぇ」
 店の外で遊ばせていた猫を、娘の腕から奪うように抱きとると、小玉(こだま)は甘ったるい声で猫に話しかけた。
 それは通りすがりの男たちの目や耳を引きつける為の行動でもあったと、 こうして醒めた目であらためて見ると、小玉の狙いははっきりとしている。 つくづくあの時の己の気の迷いを笑い飛ばしてやりたい。
 周期的に、世の中のすべてが虚しくなり、生きているのが耐えがたいと感じる時期がある。 いっときの気鬱の病だと言い聞かせ、その期間をどうにかやり過ごして来たが、 今回はなかなか浮上できず行き詰まっていた。
 母が江戸を離れている間に黙って消えることも考えた。 が、あの人のことだ。地獄の果てまで追ってきてあの世でも叱責されるに違いない。 元より己の心の問題に、母を巻き込みたくはなかった。
 あの時期の自分は、生きる為というより死なずにいる為に、何かの命綱を求めていた。 己を無理にでもこの世に繋ぎとめておく軛(くびき)のようなものが必要だった。 そういった意味で、目の前に持ちかけられた恋にいつになく自分は期待してしまったのだろう。 そんな事、誰に言い訳も出来ないが。
 しかし秀にだけは、いつまでも失恋の傷を引きずっているとは思って欲しくない勇次だった。 実際、井川らを裏の仕事にかける為に動くうちに、あれほどしつこかった鬱症状も、 女への感傷と共にいつしかどこかへ消え失せてしまっていた。 闇を抜けると、物事を引いた視点から見られる以前の自分に戻っていた。
 そんな折に小玉と再び出くわしたのだ。 無論、声などかけず無視して行き過ぎようとしたが、今度は彼女の方が目ざとく気づいて声を上げた。
「ちょっと勇さん!勇さんったら!知らん顔はひどいじゃないの!」
 あっという間に目の前に回り込み、退路を塞がれた。勇次ははじめから目を逸らして「どうも」と口の中で挨拶だけする。 勤め先の料亭・花乃井の女将から、小玉がまた座敷に出ていると何日か前に聞いたばかりだ。 尋ねても癇癪を起こす小玉のせいで、女将にも詳しい事情は分からないとのことだが。
 そんな男の冷めきった表情をものともせずに、小玉は昼間から肩にしなだれかかるようにして囁きかけてきた。
「ねぇ勇さん。あんなことがあったけど・・・。あたしのこと、いまでも好き?」
「井川様はどうなすったんで?」
 素知らぬ顔で勇次が問うと、小玉はさも厭そうにふるふると頭を横に振って答えた。
「井川?そんなひと、もう知らない。あたしにはやっぱり勇さんしかいないと思って、あの話こっちから断ったの」
 言い知れぬ憂いを帯びた切れ長の目で無言で見下ろされ、もう一押しと思ったか。 胸に抱えた猫をきゅっと抱き締めて、切なげに呟く。
「勇さんが許してくれなきゃ、あたしはまたひとりぼっち・・・」
 苦しがった猫が暴れ出し、だしぬけに腕の中から飛び出した。 しかしもう狙いの獲物を見つけた女に、小道具の猫などすでに無用だ。
「悪ぃが急いでるんで」
「ねぇ、待ってお願い。もう一度、もう一度だけ。あたしにやり直す機会をちょ」
「よお、三味線屋!」
 小玉の訴えかける作り泣きは、突然の快活な男の大声にかき消された。 振り向くと、ちょっと離れた道の先に蓬髪頭の若い職人が立ち、陽気に笑いかけている。 逃げ出した猫を片手で胸元に抱いていた。
 その姿を見た途端、勇次の胸の奥がフッと明るくなる。あたかも雲間から一条の陽の光が射したように。
「―――お、なんだ秀じゃねぇか。とんだとこで遭っちまったな」
「なんだよおめぇこそ、こんなとこで別の女と油売ってていいのかよぉ」
 長い足を投げ出すようにプラプラと近づいて来ながら、屈託なく三味線屋を冷やかしにかかる。 その一言で、小玉の細い眼尻にピキッと亀裂が入った。
「え?別の女?」
 尖った声を上げると、案の定『しまった』と言いたげな色男の露骨な焦り顔。 それと相反してキリキリ険しさを増してゆく白粉顔とを交互に見比べて、 割り込んで来た謎のお邪魔虫は、またもや余計な口を滑らせた。
「あ、やべ。まずかったか?でもよ、そんなにコロコロ相手が変わるんなら、 また別の簪作ってくれなんて二度とこの俺に頼まねぇでくれよな」
 勇次に二の句を継がせずぺらぺらと言い切ってしまうと、小玉の胸に無理やり猫を押し付けてニッと意地悪な笑顔を見せる。
「ほい、姐さんの落とし物。―――じゃ、そーゆうことで!」
 一呼吸置いて勇次も会心の笑みを小玉に向け、いつもどおり営業用の挨拶をした。
「じゃ、そーゆうことで。三味線のご用命はこれまで通りお願い致しますよ」


 そのまま振り返らず、大通りを大股で歩いてゆく職人を追って進み、辻を曲がったところでようやく追いついた。 息を少し切らしていたが、追いかけるうちに腹の底から笑いが止まらなくなっていたせいだ。
「秀。おめぇにしちゃ上手ぇ芝居だったじゃねぇか」
 つられて笑った秀だがすぐに表情をあらため、肩に置かれた勇次の肘を払い落すと、冷たく一言。
「遊び人がおたおたするんじゃねぇや、みっともねぇ」
「そうだな」
「甘い顔見せてちゃらちゃら笑ってんのが、おめぇにゃ似合いだぜ」
「覚えとくよ」
「―――それと。言っとくがこないだの簪代はびた一文まけねぇぞ。さっさと払いやがれ」
「あ、おい、秀」
 前を見たまま淡々と口にし、ふいに駆けだした擦り切れた半纏の背に呼びかける。 自分の声が秋の吸い込まれそうな高い空みたいにカラッと晴れているのを、勇次の耳は聴いていた。
「耳をそろえて払いに行くぜ。―――今晩な!」






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