Cocoon - 繭 - 6









 おにいちゃんが施設を出て行ったのを知ったのは、秀が学校から帰ってきた後だった。
 先生からごくさりげない声でそれを聞かされた秀は、話を最後まで聞かないうちにおにいちゃんの部屋に走っていた。 バンとノックもせずにドアを開けると、そこは今まで人が住んでいた形跡もなく、 ガランとしたただの空き部屋になっていた。それでもそこはかとなく、 おにいちゃんの嗅ぎ慣れた体臭が漂っていた。
(なんで・・・?なんで、、、にいちゃん、なんで・・・!?)
 いつの間にか肩から滑り落ちたカバンもそのままに、茫然と部屋の真ん中に立ち尽くす秀だった。 今朝、何事もなくいつもどおり食堂で顔を合わせ、テーブルは違ったけれど小さく笑みを見交わしたばかりだった・・・。 いってらっしゃい、とその目は秀に告げていた。あのときのおにいちゃんの表情には、 どこにも陰りや突然のさよならを誤魔化すような嘘は感じられなかったのに。
「あのねぇ。今だから言うけど、あの方には施設側から申し出て、出て行って貰ったの」
 いつの間にか後ろについて来ていた女の先生が、秀の背中に向けて胡乱な感じのする言葉を発した。
「!な・・・。なぜですか・・・?」
 先生は銀縁の眼鏡の奥から、探るような、それでいてどこか冷酷さを含んだような厭な目つきで秀のことを見た。
「・・・あなたは知ってるかどうかは知らないけど。あの人は、隠れて子供に良からぬことをする癖があるって、 噂が立つようになったから」
 秀はぎくりとして、思わず背中を強張らせた。震えそうな声をどうにか抑えつけて、低い声で訊ねる。
「子供に・・・よ、よからぬこと?」
 秀の演技はあっさりと看破されていたようだった。先生は鼻を軽く鳴らすと、口に出すのも汚らわしいといった口調で、 早口に言った。
「そ。火のないところに煙は立たないって言うでしょ。 いわゆるヘンタイよ。それも男の子が好きみたいなの。少年にいやらしいことをしたいヘンタイだったのね」
 まるで先生の視線のまえで全裸で立たされている気がした。千本の針に貫かれたような灼けつくほどの痛みと羞恥、 自分がどこに立っているのかすら分からないほどの絶望を、そのとき秀は感じた。
 おにいちゃんは、秀が学校に行ったあとで理事長先生に呼ばれ、 そういった不適切な噂が広まっているがとの尋問を受けたのだった。 そのうえで、おにいちゃんはたった今、施設から出て行き二度とこの周辺で姿を見せないことを条件に、 即日解雇されることになった。 施設としても、そんなことが公になれば、行政の調査が入りただでさえ資金繰りの厳しいところに、 ますますの低評価を与えることになってしまう。揉み消して当人を放逐させるほうがいいと判断したのだ。
 施設でもよく一緒にいたのは周知されている秀が、おにいちゃんとどんな関係を持っていたのか、 先生たちはもちろんそれからも何も訊くことはなかった。 しかし、秀を見る目はあからさまに変わった。口では今までと変わらぬ口調で話していても、 ちらと一瞬穢れたものを見るような目つきや、二人部屋ではなく個室に移るようある日突然言われるなどの心ない仕打ちに、 秀の深く閉ざした胸の奥はおにいちゃんに捨てられたことに続けて、ずたずたに切り裂かれた。
 自室の机のうえに、『ごめん』という小さな書き込みを発見したのは、それから十日ほども経ったあとだった。 おにいちゃんからの最後のメッセージだと思われるそれを見つけて、秀ははじめて心の底から号泣した。 涙はどんなに流しても枯れることはなかった。心の傷口から流れる血が止まらないように・・・。
 隣の部屋に聞かれないように、布団のなかで嗚咽を噛み殺したが、 次の日に憔悴しきって瞼の腫れ上がった悲惨な顔を晒せば、周囲からもちろん怪訝な視線を浴びることになった。
(ここから出たい)
 やっと涙も出尽くし枯れ果てたあと、秀のなかでふとそんな思いが勃興した。 ここから永久に出て行って、新しく生きはじめたい。 おにいちゃんの居ないこの場所に、もうなんの未練もなかった。自分の家なのかと昔は錯覚していたが、 そうではなかった。
 秀は高校入学を待ちかねて、その年齢からでも出来るアルバイトを探して明け暮れはじめた。 先生たちの差別的な態度もクラスメイトの呆れて避けるような反応も、 目的に向けてわき目も振らず必死に打ち込むことで、気にならなくなった。 施設を出て自活することに際して必要な手続き以外、施設側からの援助や口利きなどはいっさいを受けたくなかった。
 秀がお金を貯めながら専門学校を探し、長く暮らした施設を二度と振り向かずに去ったのは、 結果としては高校卒業してしばらく後のことになったが、 そうした経緯でついにたった一人で暮らし始めたとき、 秀はもう誰の力も借りずに、誰にも期待せずに生きてゆくことを改めて胸に誓っていたのだった。




 早朝もまだ暗いうち、冷え込んだ道を秀はひとり左門さんのマンションから出て歩いていた。 最寄りの駅までまだ人けもない道に、ひたひたとスニーカーの小さな足音だけが響く。 心がどこかに千切れて飛んでいってしまったような虚ろな気分だったが、 夢の欠片とはまだどこかで細く繋がっていた。
 明け方のぐっと冷え込んだ空気に、体の表面は凍えている。 でも内側は冷めない熱に浮かされていた。耳の奥に、左門さんの乱れた息遣いがまだ残っている。
 彼の体に寄り添い、その熱い肌に直に手で唇で触れた。 ベッドの上の毛布をとって、疲れ果てたように眠りに落ちた彼のうえに着せかける。 もしかして寝たふりをしているのかも知れなかったが、 秀はそっと起き上がると、荷物をとって足音を忍ばせてドアへと向かった。
 今日一日、学校にも行かずにぼんやりと家で過ごそうと思った。 放心した頭のどこかではすでに、バイト先に辞めると告げようという決意が浮上していたが。


 翌日、午後からの仕事に、いつもよりも人目を避けるように出て来た。 忘年会のその後の出来事で頭がいっぱいになっていてすっかり忘れた気になっていたが、 会社に近づくにつれ、酔っぱらって醜態をさらした自分のことを急に思い出したのだ。 その場に居合わせた人と顔を合わせるのが恥ずかしい。
 実際には、そのことでなにかからかって来るひとなどもおらず、 それどころか拍子抜けするくらい何事もなく変わらない。おとといのことなどとっくに忘れ去ったかのように、 あれほど賑やかに騒いでいたパートのオバサンでさえ、ごくいつも通りに挨拶しただけだった。 切り替えの早い大人たちの社交儀礼に、秀は救われたような変な気持ちがした。
 しかしそんなことよりも、今日の自分には主任に言わなければならないことがある。 逃げ出したとしか思われなくても、あのひとには合わせる顔がない。 窮状を救ってもらっていながら、そのどさくさに乗じる形で一方的に想いを告白して、あんな行為までしてしまった。 もうとてもこの会社には居られない。引きつった表情の左門さんとギクシャクしながら顔を合わせて仕事を続けるなんて、 想像しただけでも居たたまれなかった。
 学校の勉強が忙しいとか、一身上の都合という言い訳で簡単に受理されるだろう。次はいくらでもいる。 なんでもっと早く言わないんだと怒られるのは必須だが、 とにかく辞めさせて貰えるように、横柄な主任にもひたすら頭を下げまくるしかない。
 勝手だけど左門さんの知らないうちに、辞めて消えてしまいたい。 とにかく彼が今日、仕事の用事でここにやって来ることがないよう、秀は必死で祈っていた。

「村上くん」
 突然、背後から声をかけられて、秀は驚いた猫みたいに飛び上がった。 収納前の箱の積み上がる通路で照合作業をしていた秀が振り返ると、 いまもっとも会いたくないひとがちょっと離れて立っている。 秀は無表情の顔をさっと元に戻すなり、反射的に反対方向に逃げ去ろうとした。
「こらっ。仕事を投げ出すんじゃない!」
 いきなり通る声で射すくめられ、秀の足が止まった。
「・・・・・」
「このリスト、頼みたいんだよ」
 つかつかと歩み寄って来た左門さんは、他のひとと変らない、何事もなかったかのような口調で秀に言った。 ああ、と内心で思う。この人もそうなんだ。大人は、なんでも忘れたフリをするのが上手いんだった・・・。
「・・・すみませんでした」
 一呼吸おいて、秀もまた気を引き締めると普段通りの声で向き直り、リストを受け取った。 それは大した量ではなく、割合すぐに揃えられそうな見覚えのあるものばかりだった。
「あ。全部あります。少し待ってて貰えますか?それとも、届けましょうか」
「うん。すぐ揃うならここで待ってる」
 秀はハイと返事して、素早い身のこなしで淡々とリストの品を揃えていった。 通路の裏側に移っても、その向こうに左門さんがいると思うと足元が震えそうになる。 それでも何とか、すべての品を揃え終えるとそれを段ボールに詰めて、左門さんのところに戻った。
「お待たせしました」
「ありがとう」
 視線を床に落としたままの秀が、左門さんの差し出した腕に一抱えもある箱を載せようとしたとき、 二人の手が一瞬触れ合った。と思ったら、彼の手が秀の箱を支えた状態の両肘を掴んでいた。
「・・・!!」
 秀が驚いて息を呑む。思わず目を上げて彼を見てしまった。 左門さんは真剣な顔をして秀を見つめると、箱ごと体を引きつけたままで小声で囁いた。
「好きだ」
 秀は何を言われたのか分からず、その場に突っ立っている。 しばらく待ってみたがせっかくの一言にまるで反応なく、固まったその表情を見て苦笑した彼が、もう一言囁いた。
「今日仕事が終わったら、・・・オレの部屋に来られる?」
 やっとフリーズの解けた秀が無言のまま、ぱちぱちと音がするくらいに激しくまばたきをした。 信じられないといった大きな瞳を見開いてこっちを凝視している。何度か小さく喉を鳴らす音がした。
 そのうち掴んでいた両肘が小さく震え始めたのを感じて、 左門さんがそんな秀を勇気づけるように、手にギュッと力をいれて軽く揺さぶった。
「・・・・・ぁ」
「返事は?」

「・・・わ、・・かりました・・・」
 唇をかすかに震わせ、機械的に返答するのが精一杯だった。 それを聞くなり、たった今まで全身にみなぎらせていた力みが一気に抜けたように、 目の前の左門さんの顔が薄く染まる。腕にかかっていた箱の重みが消えたことに秀が気づいたときには、 そそくさともう踵を返していた。でも珍しいことに、歩き出してすぐ何かに足をとられ軽くつまづいたりしている。
 段ボールを抱えて去ってゆく頼もしい後姿を、秀は口を半開きにしたまま見送っていた。



 幸せな日常がしばらくの間続いた。
 左門の部屋と自分の部屋とを互いに行き来する日々。 愛されていると感じるだけで、秀はいままで色の無かったこの世界のすべてが虹色に輝いて見えた。
 学校にも真面目に通い、バイトとの掛け持ちで慌ただしいが充実した学生生活を送っている。 少しずつ周囲の学生とも打ち解けられるようになったのは、 秀の強固な人間不信に緩やかな変化が出て来たことの表れだった。
 安心して色んなことを話したり相談できる恋人の存在があるから、 外の世界の光にも避けずに目を向けてみようと思える。 初めて女の子に告白されたときには、ビックリすると同時に嬉しい気持ちが素直に沸き上がり、 思わず『ありがとう』とお礼を言ってしまった。 もちろん丁寧にお断りをしたし、左門にも内緒だけれど、内心でどこか誇らしかった。
 いままで目の前を流れてゆくだけで自分には関係ないと思っていた風景のなかに、自分も居る。 勇気を出して踏み出してみれば、思っていたよりも世界は明るく、怖いものばかりではないのかも知れない。
 秀はそのうち、写真のほうにより興味を強く惹かれている自分に気が付いた。 写真を撮る仕事をしてみたい。いつか、自分の捉えた永遠の瞬間に向けてシャッターを切ってみたい。 そんな夢を持ったのはやはり、国内外を旅して、沢山の興味深い写真を撮っていたおにいちゃんの影響が大きい。
 でも左門と付き合い出してから、おにいちゃんのことはあまり思い出さないようになっていた。 『ごめん』と書き残したおにいちゃんに、頭のなかで今度は秀が謝る。
(おにいちゃん、ごめん。俺、やっと好きなひとに会えたよ)


 それでも時おりこの満ち足りた日々に不安な影を落とすのは、 もちろん左門が遠い故郷に残しているという女性の存在だった。
 一緒にテレビなど見てのんびりと過ごしている週末の夜、突然鳴りだす携帯電話の着信に、 ふたりの空気は凍り付く。膝に抱きかかえたクッションにことさら顔を埋めて無視している秀のかたわら、 無言で立ち上がった左門が、電話を持ったままドアの外に消えてゆく。
 苦しい、悲しい。悲しい。苦しい。
 左門の愛情を疑ってなんかいない。だけどその一方で、 嘘やごまかしなどでいつまでも彼女を遠ざけ続けることは、 彼の性格的にどうしても出来ないだろうと想像する。 病気で余命の限られた父親と二人暮らしだという彼女は、いずれ一人になってしまう。 そうなった場合、左門の立場や彼自身の正義感等を考えると、 秀を愛していても彼女を見捨てることの出来ない、現実的な問題の前に立ち往生しているのは、 当然のことにも思える。
 それでもいつか左門には、どちらか一人を選ばねばならないときが来るだろう。 秀はわざとボリュームを上げたテレビの音のまえで、うつろに自問を繰り返す。 ・・・たとえもし自分を選んでくれても、自分には普通の家庭は作れないし、 ましてやふたりの子供をもうけることも出来ない・・・。 左門のくれたお守りはいまでも肌身離さず持っているけれど、 ふたりのこの世間に隠れた愛をどこまで、いったいいつまで守ってくれるだろうか。
 美しい繭のような完結した世界。二人で居られさえすれば、その幸せは永遠に続くと思っていた。 いまになって、男である自分が同性の左門と結ばれることの社会のなかでの難しさを、 生物的な条件をも含めて、容赦なく突きつけられている秀だった。


「今日ゴムつけないで、・・・」
 長い電話から戻って来た左門の、外気に冷え切った体を引き寄せて、秀は真っ向からねだる。 黒目がちの艶やかな双眸に言い知れぬ心を滲ませたこの年下の恋人を、左門はジッと見つめたあとで、 黙って頭を抱き寄せた。
 秀がそんなことを言うのは決まって、置いて行かれるのではないかという不安に駆られているときだ。 常夜灯のおぼろな光源に細い裸身を浮かび上がらせ、左門の上に跨った秀は、 高めた左門自身に手を添えて、別の世界をうつろうような儚い表情で自ら腰を落としてゆく。
「…クっ」
 きついほどの狭さに左門が呻くが、秀はかまわず短く息を吐きながら性急に彼を呑み込もうとする。
「んぁ。ハ…ぁ。ぁ、ぁ・・・ん」
 淫らなため息を吐いて自分のなかに半分ほどそれを収めてしまうと、 まだ充分に馴染まないうちから見せつけるようにすぐさま腰を揺らし始めた。
 官能と負担の大きい体勢での交合の苦しさに、 目の端にきらきらと涙の粒を浮かせながらも、秀は狂おしい動きを止めない。
「ま・・・っ、待てよ秀・・っ、そんなにしたらすぐ・・」
 のぼり詰めるまでの時間を少しでも引き延ばそうと、左門が秀の半ば勃ちあがりかけた前に手を伸ばしたが、 秀はその手を振り払って切れ切れに口走った。
「いいからイって・・イケよ・・・っ。あっぁっ・・・ねぇイって、 お、俺のな、なかにぜんぶ・・・ハァ・・ハ・・ン・・ッ」
 だんだんと吸い付くように蠢く内壁が、いまやすっかり左門を飲み込んでいる。 今夜の秀はいちだんと魔性を帯びているように、左門には感じられた。 濡れて擦り合わせる部分が耳を犯すほどの淫猥な粘着音を立て、 そこに更なる劣情を煽り立てる刹那的な喘ぎが混ざり合った。
 全身を貫く快感に浮かされ呆然と秀の痴態に釘付けになっていた左門が、 悲痛な懇願を受けて我に返ったように、自分の上の細い腰を両手で掴む。 激情に応えるべく下から激しく突き上げ始め、秀は恋人の名を呼びあられもなく切羽詰まった嬌声を上げ続ける。
「あっ・・・すき・・・・好き・・・っ・・・さもん、す、・・・すき・・・っ」
 限界が近づき食い締めた奥歯を軋らせた左門が上体を起こし、秀の体を掻き抱いた。 浮き上がる鎖骨の窪みや首筋に唇を這わせて、薄い皮膚に浮いた汗を吸う。 やがて来るその瞬間を待ちわびて、秀の背筋を期待とも悦びともつかない戦慄が一気に駆け上がった。
(はやく、・・・・・!)
 左門が秀の最奥で達すると、衝動にひときわ喉をのけぞらせて、声も無くしなやかな背が反り返った。 生きている命の元を、温かな熱の塊をこんなにも・・・数えきれないくらい体の奥で受け止めているのに・・・
(妊娠・・・させてよ・・・・・左門)
 余韻に全身を震わせながら、ぜったいに口には出せないことをまた思う。 そうしたら既成事実を作って、遠恋の相手のほうから諦めさせることだって出来るはずだ。
(俺に出来るのは・・・。あんたから離れないことだけ)
 離れないで欲しいとも、離さないで欲しいとも言えない。左門の答えを聞くことが怖いからだ。 そこに一瞬でも彼の躊躇や迷いを感じたとしたら、ふたりの繭の世界は内側から綻びてしまう。
「好きだ。秀・・・。本当に好きだよ。・・・愛してる」
 秀を抱き留めたまま、左門が耳元で熱心に繰り返す。労わり気遣うような声に目を閉じて、秀は胸のなかだけで嗚咽した。 何より聞きたかった嬉しいはずの言葉にも頷けない、いまの自分の心が寂しかった。




 左門が故郷の女性に『自分にとって大切な』秀の存在を打ち明けたのは、 それから一年あまり後のことだった。





(左門と秀の昔の関係を、とのリクエスト、有難うございました。
左門相手だと秀が積極的になりそう、というご指摘から妄想を広げさせて頂きましたが、
それ以上にどん底にヤンデレの秀になってしまいました。愉しんで頂けますと幸いです)

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